今日は、雑司が谷からさくらトラム(旧都電 チンチン電車)で いざ北区の飛鳥山へ。渋沢栄一をテーマにさあ散策だ!
せっかく(?) 雑司谷に来たから、霊園に行き、明治の文豪『夏目漱石』の墓参をする。渋沢栄一と漱石、同時代を生きたとはいえ27歳の差がある二人だ。明治42年、朝日新聞に「それから」が連載された年、渋沢栄一は渡米実業団を率いて約3ヶ月に及ぶ旅行をする。この年漱石も、学友だった満鉄総裁中村是公の招きで、満州と朝鮮半島を旅行する。実業と文学、元来、そう簡単には混じり合うことはないだろう。もしかすると、二人は遠くからお互いの仕事ぶりを意識していたかも知れない。この頃の日本は、日清、日露戦争に勝利し、韓国を併合する。以後、アジアの盟主を気取って帝国主義へと舵を切る。
※ ※ ※ ※ 飛鳥山公園 ※ ※ ※ ※
飛鳥山公園。この公園そのものが山に沿う立体的な景観だ。ここは武蔵野台地の北の端で、北側を石神井川が台地を横切って流れて谷をつくっているので山になっている。(飛鳥山は標高25.3m、国土地理院へ申請したが「山」とは認められなかったようだ。23区で一番低い山は愛宕山で25.7m)
江戸時代以前、石神井川沿いに勢力を広める豊島氏そしてその一派の滝野川氏がこの地域を領有していた。豊島氏が、紀州より王子大神を迎え、さらに飛鳥明神を勧請したことに因み、「飛鳥山」の名称がつく。もともとここには滝野川氏の山城があった。公園の中の随所で大きな石で組まれた石垣が見られるのは、歴史を意識しつつ斜面を立体的に構成する公園設計なのかも知れない。
江戸時代に入り、享保年間、8代将軍吉宗は、鷹狩りで訪れていた紀州と縁の深いこの景勝地に1000本以上の桜を植え、江戸市民の娯楽の場所とした。上野寛永寺、隅田川堤、小金井と並んで江戸の桜4大名所となった。
明治期には、上野公園、浅草公園と同じく、日本最初の公園に指定される。現在は、園内に飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢史料館がある。桜や紫陽花が目を楽しませてくれるだけでなく、幅広い年齢に対応した、個性的で、知的な雰囲気も薫る公園である。
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2024年に新一万円札紙幣の顔となる渋沢栄一。江戸時代に現在の埼玉県深谷市に生まれ、幕末の一橋慶喜に仕える。慶喜が15代将軍になると、栄一は幕臣としてパリ万博使節として随行するが、すぐに日本は大政奉還により明治維新となる。このとき栄一28歳。1年半の間、欧州諸国の社会を視察し、実体験する。帰国後、大隈重信(当時30歳)の強い要請に応じる形で、わずか4年間であるが、明治政府のもと民部省(徴税)、大蔵省(財政)で近代日本の行政の基本づくりに尽力する。
その後官界から民間へとフィールドを変えて、この、時代の申し子は、大いなる使命感に取り憑かれたように日本経済の黎明期を牽引していく。第一国立銀行(現みずほファイナンシャルグループ)をはじめとして約500にのぼる株式会社の創立、育成を担い、実業界を引っ張っていくのである。東京株式取引所(現東京証券取引所)、東京ガス、東京海上火災(現:東京海上日動火災保険)、帝国ホテル、開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール)など今なお有名な一流企業も少なくない。新しい時代は、進取の気勢に満ち溢れ、時流に乗って様々業種で起業しようとする旋風が吹き荒れていたに違いない。皆が静かに落ち着いてなぞいられないといったある種の躁状態だったかも知れない。栄一は民間の力を集めた元気な株式会社こそが国力を生むと確信し、次から次へと会社を興していく。
玄孫(やしゃご)で投資会社の会長の渋澤健氏は、今から5年後以降のよりキャッシュレス化が進む時代の中で、例えば、もし外国人の観光客から一万円札の肖像について問われたら、
《「この人は日本の資本主義の父と言われ、今から100年以上も前に社会的インパクト投資やサステナビリティを掲げたシリアル・アントレプレナーの原型を実践してみせたんだ」と答えて差し上げて下さい。》と言う。
栄一は実業界だけでなく、福祉や教育分野でも様々な支援をし、民間外交でも活躍をし、やがて江戸、明治、大正、昭和を生きた91歳の生涯を閉じる。
最期は飛鳥山の自宅から運ばれる。今も谷中墓地の徳川慶喜の近くに眠っている。
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