マツコの番組を何気なく見ていたら、何か脳の記憶中枢がくすぐったくなった。
モッコリとなだらかな丘陵に盛られたご飯の上に、キーマカレーがペースト上に敷かれている絵、青い民藝調のコーヒーカップ、その横のペルシャ的なカットガラスには琥珀色の液体、白木の蓋が開いたシュガーポットにはカラメル色の粒が見える。
完全に眠っていた記憶が蘇った。
もう、30年前になるか
甲州街道沿いの文化服装学園(現在は文化大学)の向かいあたりのビルの地下にあった店だ。
いきつけだった喫茶店とはまったく違うクセのない深煎りの珈琲、ここのコーヒーだけミルクを入れ、そして例のブランデーを数滴垂らしてすすっていた。
今年3回もメデイアに取り上げられたので、「まあバタバタとした日々が続く」と中野の店主は嬉しい(?)悲鳴を上げる。「8月のマツコの後遺症がしばらく続くなぁ」とも。
1974年に初代社長が開いた甲州街道の店は10年前に閉めて、南新宿にある二号店も4年前に閉めて、この中野に移転したようだ。
この中野店の店主は、もともと二号店の隣にある《石狩川》(当時)というラーメン屋で働いていて、店での人間関係の悩みをオーナーどうしが知り合いだったハイチの社長に相談をすると、「ウチで働きな」とスカウト(?)いや引き抜き(?)されて、隣のコーヒー店でカレーを作り始めたという大らかな転職経験の持ち主だ。笑
新任の彼は、社長がハイチに行く予定があったので、それまでにでレシピを覚えなければならず、2ヶ月で同じものを作れるようになったという。柔和な仕事師だ。
初代社長の奥様がハイチの人だったらしいが、そのハイチ共和国は内戦などの政情不安、大地震、雨季の洪水や土砂崩れといった自然災害、経済の停滞による治安の悪化などが繰り返し続き、現在もコーヒーはじめなかなか物品が手に入れにくい状況だという。
「器も 味も まったく変わらないですよ」と店主は淡々と言う。
その頃の空気や風景は蘇っては来ない。店に一人で行っていたか、友人か、彼女だったか。いや彼女はいなかった。(笑) 初代の社長であるマスターの容貌や店の内装も記憶の深い地層の底に埋もれたままだ。しかし目の前の「ドライカレー」そしてハイチコーヒー、目に入る光景は確かに当時と同じ、そして味も当時のままだというのは、なぜか確信できる。記憶とは曖昧にして厳密なのかも知れない。
変わらず美味しかった。
目と喉と胃袋が想い出の味を覚えていた。
記事にコメントする