よく見る天ぷらではなく、煮穴子をどんぶりにのせたこの「はかりめ丼」は富津、君津あたりの郷土料理のようだ。
アナゴの体にある側線に合わせて2列に規則正しく並ぶ白斑模様が、もともと魚市場や河岸で使われていた棒状の竿秤(さおばかり)の目盛り(秤目)を連想させるところから穴子=《はかりめ》となったと聞く。富津では毎年、市をあげて、旬である初夏に《はかりめフェア》がある。古くから江戸っ子の舌を唸らせてきたという自負があるのだ。
《はかりめ丼》とお品書きを壁に貼ると、何か特別感が漂い、ただの《煮アナゴ丼》より売り上げは倍以上になるのは間違いなさそうだ。笑
遅い昼飯。ここの「はかりめ丼」では天ぷらと煮付けの両方が楽しめた。つけ合わせの生姜がまたよく引き立ててくれる。何気なく上にのる千切りのキュウリがさらに家庭料理に引き戻す。甘辛のタレとよく合うさっぱりした味のバランス、食感、演出効果も抜群だ。永年検証されてきた結果この形に落ち着いたのだろう。だからスキがない。
数ヶ月前にどこかで食べた、骨ばってガサガサのアナゴと違って、ふんわりなめらかで柔らかい上品なアナゴが楽しめた。高タンパク、低脂肪、値段も安いアナゴが完全にウナギを凌駕した瞬間だった。
さて鰻である。脂質はアナゴの2倍、カロリーは3倍以上。確かに、暑さにうだる夏の日、暑気払いに精をつけるのにはもってこいだ。ただ値段もうなぎ登り。いつの頃からか、鰻を食べるときは川越に行くという習慣になっている。川越はたしかに鰻の老舗が多い街で、歩いていると、芋と鰻屋は「ああ、ここも。あれ、まただ。ここもそこも」という感じだ。もともと海がなく川や沼の多い地勢で暮らす地元民は、鰻やどじょう、鯉などの川魚をタンパク源として食べていたようだ。
《小川菊》は江戸中期1807年、《いちのや》1832年《東屋》は1868年(明治元年)の創業になる。ちなみに東京の老舗、例えば上野池之端の《伊豆榮》は8代将軍吉宗の時代とあるから、さらに約五十年を遡る。川が多い江戸では天然うなぎをはじめ川魚がよく獲れていたらしい。不忍の池も然り。当時江戸前とはこのうなぎのことを指して言った。江戸中期までに深川の門前町屋やこの上野界隈には蒲焼を売る屋台が多くあった。江戸初期には下賤の食べ物だった鰻は、元禄の頃の醤油の流通に合わせて流行し、やがて「鰻屋」の登場をみる。一説によると、もともと冬が旬の鰻を人気がなかった夏にも売り出すために、かの平賀源内ディレクターが考えたキャッチコピー《土用丑の日うなぎ》で一気に流行の火がついたとも。
《いちのや》の鰻はふっくらとして旨い。一般に関東では、いったん白焼きしたものを蒸すので、フワァと仕上がるようだが、パサついて小骨が気になる店も少なくない。その上値段は高いとくる。この店は、白焼きせずに生のまま蒸すので、よりふわっとするらしい。(実際に確認していないが)
《いちのや》は、観光バスが数台停まれる駐車場があり、奥の奥にも席がある。川越観光の拠点の一つにもなっているので、味のムラが気になることもあったが、幸い今までは美味しく頂いている。旬の食材を取り入れたサラダも気が利いて、老舗に見られる一つの進化の過程《伝統とモダンの調和》を目指しているのかと頼もしく思ったこともあったが、どうやらそれはそうでもないようだ。笑
鰻は焼くのに時間がかかる。時間をかけるから美味しいのだ。鰻巻きをつまみながら酒を酌む。ファーストフードに慣れた現代人が《待つ文化》を楽しめるか、そして鰻をめぐる環境が変わっていく中、そしてこの新型コロナの下、伝統と経営を店がどう両立させよう。
変わらぬ味を祈るばかりだ。
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