明治42年からこの場所にある老舗である。平成8年に建て替えてビルになったが、当時の黒塀の料亭の玄関を再現したので、松の床板の木目も艶も以前と同じだ。ただ框の高さは現在よりやや高かったようだ。
三島由紀夫は子供時代から、学習院の詰襟を着て、家族で連れ立って食事に来ていたそうだ。
「あの日」の前日、楯の会のメンバーを連れていつもの鶏鍋をつついたという。 女将は、「先生」が帰る際に、今より少し高かった框に座って、下足に履き替えていた背中を、今でも鮮明に覚えているという。
よく一生の最期に何を食べたいかと聞き合うことがある。
〈お袋の塩むすびと味噌汁〉とか、〈学生時代に通っていた立食いそば〉(必ずコロッケをトッピングして)とか ‥笑
ここは死を決したひとりの人間「三島由紀夫」が人生最期となる日の前日に選んだ店だ。
〈末げん〉で「かま定食」を食べる。もともと賄い食だった〈お釜〉が語源のこの挽き肉の親子丼を待っていると、あの蒸気機関車の汽笛が12時を知らせる。
あんかけのようにスルスルとかき込める。やや甘めの出汁がやさしく香る。
東大駒場の教室での全共闘との討論の約一年半後の1970年11月25日、三島は楯の会のメンバー4人と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、総監を人質に立てこもる。バルコニーから、急に放送で集められた自衛隊員に向けて演説をする。野次と怒号の中、まるでアジ文を朗読するように彼らに決起を訴える。左手を腰につけて鉢巻姿で語るあの姿だ。
煙草を燻らせリラックスした好々爺の表情で全共闘の学生と議論を楽しむ三島由紀夫とはちがう。イデオロギーで言えば、こちらの方とより強く共鳴できるはずだが、言葉が生きない。届かない。でも彼は同じトーンで語り続ける。諦めの中で淡々と作業を遂行するように。
そして「天皇陛下万歳」と唱えた後、楯の会の学生長の森田必勝とともに割腹自殺する。45歳で人生をむすんだ。
学生たちと対話をする姿は自然体で、清々しくもあった三島、それなのにどうした?自衛隊員の前では、身構えた演者のようにぎこちない三島、どちらが三島由紀夫なのか。いやそれともまたちがう三島由紀夫がいるのかも知れない。
三島は、私の父と同じ年に生まれた。父と同様に、戦争の「生き残り」の意識は強くあったはずだ。
天皇を敬愛し、慕い、殉死する純粋な覚悟もあったであろう。乃木希典がそうであったように。
そして英霊の犠牲の下、平和という幻想の中で思考停止した「生ける屍として、魂の荒廃そのものを餌にして生きた」自身を含めた戦後日本人を否定する気持ちも強かったに違いはない。
戦後去勢された傀儡の軍隊を、誇り高い皇軍とすべき使命感もあったであろう。
「僕が死んで五十年か百年たつと、ああ、わかったという人がいるかもしれない。それで構わない」三島は亡くなる年の2月、小説の英訳者との対談でそう語っっている。
今年で50年。僕には、未だに死ななければならない理由はわからない。
階段を急ぎ足で駆け上った、時代の寵児の心など凡人には分からないのかも知れない。三島と時代を共にした美輪明宏に「天才の心を推察するのは僭越です。」と一喝されそうだ。
しかし彼が何を考え、何を憂いていたのか、答えを探そうとすること自体が、「現代」にとって、いやそれぞれの人にとっての意味があることかもしれない。それは答えでなく、自分を探していることだから。
記事にコメントする