チャリと刀


 ウチの自転車の修理は、いつの頃からか、家から少し離れた店でお世話になるようになった。もっと近くにも
23軒〇〇輪業や△△サイクルはあるが、その店に落ち着いている。

 昭和の時代によく見る風景の、町の自転車屋さんといった店構えだが、昭和9年創業となかなか年代物だ。今は偉丈夫の三代目が店主だが、80歳を過ぎた二代目の親父さんも、油まみれの黒光りするゴツい指で、元気に淡々と無駄なく仕事をこなす。昨日と同じことを続けて来て、気づいたらそんな歳になったという感じだろうか。こうして長年培った技術を活かして同じ現場に立ち続けられるのは、一つの大きな幸せだと思う。

 二代目の祖父にあたる人は、大工が使うノコギリの目立てをするためのヤスリをつくる鍛冶屋で、そのつくったヤスリを江戸時代からある今も有名な日本橋の老舗〈木屋〉に納めていたという。その息子、すなわち初代は、杉並の方南町の鍛冶屋兼自転車屋に勤めた後、この場所で自転車屋を開業したという。

 鍛冶屋と自転車屋、実はこれが見えざる太い糸で繋がっている‥‥。

 江州(現在の滋賀県)国友で将軍足利義晴の命により鉄砲製作が始まったのは、種子島に鉄砲が伝来した翌年1543年のことである。その後、戦国時代から江戸時代初期まで、戦(くさ)の武器である火縄銃を製造する国友鉄砲鍛冶は、日本最大の鉄砲工業地として泉州堺とともに発展していく。そして、明治時代になり火縄銃が西洋銃に代わると次第に衰退し、やがて途絶える。

 時代の変化の中で一つの職業が消えていく。

 その後、国友の鍛冶職人は、培った技術を活かして、美術品の金属加工や花火師へと転職していったという。そしてもう一つの大きな活路が自転車業であった。

 明治の初め、水戸藩の国友家に師事して製銃技術を学んだ笠間藩の鉄砲師宮田栄助は、廃藩置県によって職を解かれ、東京京橋で〈宮田製銃所〉を始める。当時築地には外国人居留区があり、外国製自転車の修理を依頼される機会が増える。銃の製造に加えて、もうひとつの仕事となる。自転車は文明開花とともに日本に入って来た。

 歴史の偶然か、それとも必然か。

 栄助の次男宮田政治郎は、明治23年日本初の自転車を世に送り、明治35年には銃の製造を止め、〈宮田製作所〉として自転車メーカーの草分けとなる。ミヤタ自転車の始まりだ。

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 明治時代、廃刀令やさまざまな銃規制により刀鍛冶や鉄砲鍛冶は廃業する。その後、ある者は農具や道具といった日常使いの道具をつくる野鍛冶を細々と続け、ある者は金属加工の技能を生かし金属工芸品を創り、そしてある者は自転車の修理、製造を担うことになる。

 古墳時代、権力者の古墳造りである大規模な土木工事に必要な鋤や鍬を造り、その技術は脈々と培われ、鍛造、戦国の時代は刀や槍などの武具をつくり、そして製銃技術となり、明治以降には自転車製造となって繋がる。

 数年前、現在の人間が行なっている仕事の約半分がAI(人工知能)にとって変わるという学者の予測が話題になったことがある。時代の変化の潮流に人は漂い、したたかに生きる。

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