2012年2月、大阪で開かれた《教育再生機構》主催のタウンミーティングで故安倍晋三氏が演説するシーン……、この3年前に民主党が政権を握り、2006年に第一次政権を担った安倍元首相をはじめ自民党はこの時点で下野している。
「首長が非常に教育について強い信念を持っていれば、その信念に基づいて教育委員を替えていくことができるんですよ。」「政治家がタッチしてはいけないのかといえば、そんなことないわけですよ。当たり前じゃあないですか」…政治が教育を牽引する必要性を主張し、教育に政治が介入する正当性を力強く語る。
この年12月、自民党は総選挙で圧勝、再び政権を奪取し、第二次安倍内閣が始まる。
故安倍氏は、自身が著した「美しい国へ」(2006年刊行)第7章《教育の再生》の冒頭で
「戦後日本は、六十年前の戦争の原因と敗戦の理由をひたすら国家主義に求めた。その結果、戦後の日本人の心性のどこかに、国家 =悪という方程式がビルトインされてしまった。だから、国家的見地からの発想がなかなかできない。いやむしろ忌避するような傾向が強い。戦後教育の蹉跌のひとつである。」そして「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革がおこなったような学校評価制度の導入である。学力ばかりでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監査官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることができるようにする。もちろん、そのためには、第三者機関(たとえば「教育水準保障機構」というような名称のもの)を設立し、監査官はそこで徹底的に訓練しなければならない。監査の状況は国会報告事項にすべきだろう。」と書いている。
2000年以降「美しい国」の理想に向かって自民党保守本流は加速する。彼らは国民が愛国心を取り戻すためには、いわゆる《自虐史観》から歴史認識を修正していくことが必要なのだと考える。
国旗・国歌に関する法律施行(1999)、教育基本法の改定(2006)、教科書検定基準の改定(2014)、地方教育法改定(2014)、《道徳》教科開始(2018)……、そして日本学術会議会員の任命拒否(2020菅内閣)は記憶に新しい。
この映画「愛国と教科書」は、そんな風潮にブレーキをかけようとした。ドキュメンタリー映画といっても中立なわけではない。脚本があり、場面を切り取って編集する映像であるから、もちろん作為に基づいているわけだ。いわゆるサヨク的な宣伝映画ととらえるむきもあるが、加速する教育への政治介入に対して大きな危機感に駆られて制作された。2017年ギャラクシー賞・大賞を受賞した毎日テレビのドキュメンタリー番組が5年を経て映画となった。
検定教科書は、時の国家の理念や方向性を写し出す。
「美しい国」に向かって進む保守政権に歩調を合わせて、2001年「新しい歴史教科書をつくる会」は新たな教科書をつくり、それを継承し、現在は《育鵬社》が出版する。表紙のあの目玉マークが目を引く。自国を責める、いわゆる「自虐史観」を払拭し、「愛国心」を培う右派教科書の親分だ。この育鵬社の検定教科書『新しい日本の歴史』は、自治体の教育委員会での採択の一大旋風を巻き起こし、前回2015年の教科書改定では約6.2%の採択率まで上った。
一方、2013年、元教員を中心とする「子どもと学ぶ歴史教科書の会」は《学び舍》を設立し、『ともに学ぶ人間の歴史』を発刊し初の検定に臨んだ。それまで他の教科書になかった慰安婦問題を取り上げるが、検定で多くの〈欠陥〉を指摘され、大幅修正をした後の再検定で合格となった。主に公立中学で採用される《育鵬社》に対して、この《学び舎》版は、私立の名門校や国立中学の採用が多く、2015年には灘や麻布中学などの採用校に「反日極左」と批判した上で、使用中止を求める抗議ハガキが続々と届いた。右派と左派の対立がここに凝縮する。
こうして異なる歴史観の教科書が、古株の大手教科書出版社の市場に新規参入してきた。教科書採択は、子どもたちに何を伝え、学ばせるべきかという教育観に基づくことは言うまでもない。しかし現実には、イデオロギーの対立、政府への忖度、政治的な勢力闘争、そして経済的なシェア争いでもあるのだ。
昨年2021年では、この育鵬社の採択率は1.1%(前回6.4%)となり、前回に比して8割〜9割減となった。横浜や大阪などの自治体が、他社版に切り替え、東京でもすべての都立一貫校が採用していた《育鵬社》教科書がすべて《山川出版》に替わった。《学び舎》版の0.5%は前回並みである。全体では東京書籍が52・5%(60万6365冊)、帝国書院25・2%、教育出版11・4%と続く。新規参入の山川出版は1・7%となった。
作家の高橋源一郎氏は『僕らの戦争なんだぜ』(朝日選書)でかく語る。
『学校とは、国家が、その国民を育成する場所だ。なにものでもない、生まれたばかりの人間を、「国民」という形に鋳造してゆく場所、それが「学校」であり、「教室」であり、そのためのもっとも大切な手段が「教科書」なのである。
その「国民」を作るための手段としての「教科書」の本質が、もっとも濃く現れているのは、いうまでもなく「「歴史教科書」だ。
「歴史教科書」は、その「国民」に、「あなたたちは、こういうものなのだ」と告げるために書かれている。あるいは、公に、ときにはひそやかに、「我々は」という声で語るのである。』
この二十年、日本の歴史の負の部分に「美しい国」というハンカチをかぶせ、それをさっと取ると、あーら不思議、白い鳩になって空に羽ばたいていく……、そんなマジックが流行したのかも知れない。歴史観を修正する試みがひとつのブームのように波及し、その中で教科書はまるで踏み絵のような役割を担う。しかし今、教科書の現場は少し落ち着きを見せたようだ。行き過ぎた偏向は、結局バランスを欠き、魅力が褪せる。
歴史の過ちを認め、現在の問題を明らかにして、子どもたちの未来の糧にする、それは教師だけでなく、私たちすべての大人の責任である。
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