ソロバンとラグビー
ーある偶然から必然へ

 1986年から大学ラグビー界でモスグリーン旋風が巻き起こった。モスグリーンは大東文化大学のジャージの色だ。リーグ戦を制し、大学選手権へと駒を進め、明治、慶応、早稲田などの古豪に果敢に立ち向かっていく。ハングリー精神旺盛な新興ラグビー部が有名大学を食って成り上がっていく、偏差値の序列をひっくり返す下剋上は時に痛快にも思えた。そして強さの原動力になっていたのはトンガ出身の留学生だった。大学スポーツ界で外国人留学生が活躍する先駆けだったのではなかっただろうか。これ以降、無名だった大学が留学生を擁して、駅伝などで一躍名を馳せることが多くなった。結果として、高校や大学がスポーツを通じて全国にその名を知らしめることができる。学校運営上の重要な戦略の一つになるのだ。時を同じくして、例えばプロスポーツの大相撲では、ハワイ出身の小錦が土俵を賑わせ、その後曙や武蔵丸など南洋の島出身の巨漢ポリネシアンたちの活躍が続いていく。

 この大東文化大ラグビー部の留学生、おそらくシナリ・ラトゥだと思うが、彼の当時のインタビューが今でも私の記憶に残っている。

「大学では何を勉強していますか?」

「ソロバンです」

 少したどたどしい日本語で答える。

大学の講座名や専攻の名前は難しい方が格が上がる感じさえするのに()、シンプルに「ソロバン」と言い切った。

 1975年、大東文化大学ラグビー部は、前年の関東リーグ戦優勝のご褒美としてニュージーランドに遠征する。当時新任のラグビー部長であり、大学で商業簿記を教え、ソロバンの指導もできた中野敏雄氏(故人大東文化大学名誉教授)は、羽を伸ばそうと向かった南海の楽園トンガ行きの飛行機で、トンガ王国の文部次官ナ・フェフェイ氏と偶然隣の席に座ることになり、ソロバン談義が交わされた。当時の国王トゥポウ4世は《世界一大きな王様》と呼ばれる巨漢で、親日家としても知られていた。以前日本の商社マンにソロバンの手ほどきを受けたことがあり、学校教育にソロバンを導入することを考えていた国王は、ナ氏からの連絡を受けて、すぐに中野氏と面会する。結果的に中野氏はトンガ珠算教育教会名誉副会長を拝命し、彼の指導のもとで、トンガでのソロバンの本格導入が開始された。今では小学校3年生から5年生の算数における必修単元となっている。

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 このソロバン導入を機に、将来のトンガの指導者の育成を兼ねて、日本への留学生を迎えることとなる。このとき大東大は、ラグビーができることを受入れの希望に挙げた。ラグビーは以前英国領であったトンガの国技であり、子供たちの娯楽になるほど普及している。DNAに組み込まれた大きく強い身体、そして海辺を走り回って鍛えられた脚力、そして南国特有の気持ちの優しさや順応性など日本人にない可能性に期待した。

 1980年、ポポイ・タイオネとノフォリム・タウモエフォラウが初めてトンガから大東文化大学へソロバン留学生として来日する。二人とも三洋電機(現パナソニック)でプレーを続け、日本代表として桜のジャージを着た。87年第一回ワールドカップ、ニュージーランド・オーストラリア大会でウイング(WTB)として日本の初トライを挙げたノフォリムは、現在埼玉工大で指導している。そして1985年のシナリ・ラトゥ・ウイリアムスそしてワテソニ・ナモアが留学II期生である。この2人はそれぞれNO.8WTBとして、大東大を率いる鏡保幸監督の下で2度の大学日本一に輝いた。こうして8090年代の大東大躍進の狼煙が上がった。

 このII期生のナモアは三洋電機(現パナソニック)に所属し、引退後は会社のお膝元の群馬県邑楽町に家族と住み、地域でのラグビーの普及やトンガと日本の架け橋として活動していたが、一昨年の12月に急逝する。ラトゥ(ラトゥ・ウイリアムス志南利)は日本代表として 3回連続してワールドカップに出場した後、三洋電機のコーチや母校大東文化大監督を務めた。現在はパナソニックを退職し、先立った盟友の遺志を継いで立ち上げたNPO法人《日本トンガ友好協会》の代表として活躍する。

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 日本から南に8000㎞離れ、オーストラリアの東、ニュージーランドの北に位置する南太平洋に浮かぶ170の火山の島から成るトンガ王国。長崎対馬ほどの面積に人口約11万人が住む。今年1月、周辺の海底火山の噴火とそれにともなう地震と津波により甚大な被害を受けた。その復興支援を目的としたチャリティーマッチが、6月に東京・秩父宮ラグビー場で開催された。ジャパン予備軍で編成された「エマージング・ブロッサムズ」と国内でプレーするトンガ出身選手を中心に構成されラトゥ氏を監督とする「トンガ・サムライフィフティーン」の対戦である。現在トンガ出身のリーグワン選手は約50人、今年5月時点で日本代表選手に選ばれた選手は6名に及ぶ。試合前に繰り広げるウォークライ。ニュージーランドのマオリの《ハカ》は有名だが、他のポリネシア人の国にもある。この試合では、ラトゥ氏の息子ラトゥクルーガーがトンガの《シピタウ》をリードした。来年のフランス大会は日本とともにトンガも出場する。いずれW杯での両国の対戦も観られるに違いない。

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 ラグビーは国籍ではなく5年以上の継続した居住でその国の代表資格が得られる。ポジションによって多様な技術や個性を包含するスポーツ「ラグビー」が多様な国の個性や特性を集積していく進化は必然であっただろう。しかしもともと単一民族の日本ではその進化はゆっくりだったはずだ。トンガ出身のラガーマンたちは帰化し、その二世たちが育っている。その進化の胎動は飛行機の隣り合う席で偶然起こったのだ。その後、多くの人々の努力の継続と幸運に支えられて、今、日本とトンガの絆の樹が深く根を下ろしている。

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