先日、小学校で教えた女の子が4年ぶりに訪ねてきてくれました。今、彼女は高校1年生。私立のK女子中に進学して、そのまま高校へ進みました。その日にはちょうど、学校の中間テストの終わった日、解放感に浸るついでに、塾まで足をのばしてくれたのかも知れません。
彼女のことはよく覚えています。5年生のときの移動教室の前に、私のところに来て、
「先生おみやげ何がいい?」
「いや、別に何もいらないよ。空気とか、石ころ、そうね、思い出かなハハハ・・・」なんて、適当に答えていました。お小遣いも少ない中、あまり気遣いをさせたくないので、子供たちにはわりとそんなふうに言っていました。
数日後、移動教室から帰ってきて彼女は「先生、はいこれ!おみやげ」と、石を握っていた手を広げました。
・・・それまでに本当に石をおみやげにくれた子はいませんでした。だから、彼女のことはよく覚えています。そして今も机の中にその石はあります。
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その彼女が来て、しばし学校のことなど話をしていました。語ることば一つ一つにエネルギーがみなぎり、躍動しているという感じです。彼女なりにいい時代を過ごしているんだなと思って聞いていました。この時代のお話好きの女の子のおしゃべりは、滝のように言葉が口からあふれ出てきて、酸欠で倒れたりしないだろうかと心配してしまうほどのすごさです。今、高校になってクラスが新しくなってからは、まだ少しクラスになじめないということも言っていました。彼女にとっては、中学の時のクラスが本当に最高だったようです。話の途中で何度か「青春は中学で終わったんだわ。」と小説のセリフみたいなことを言うので、すこし詳しく聞いてみました。
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中学1年生から2年生の初めまでは、クラスの中は、なんとなくみんなよそよそしく学校もあまり面白くなかったそうです。――何もかもが中3の5月の修学旅行で劇的に変わったのでした。
修学旅行の3日間ずっと、クラスの全員、そして先生(新任の男の先生ですが)までもがみんな泣き通しだったということです。「私はもう泣きながら笑っていたよ」と彼女。修学旅行の後は、つまり泣きはらした後は、本当にみんなが仲良くなれて、本当にかけがえのないクラス、最高のクラスになったのでした。なぜ泣いたのかということに彼女は明確には言いませんでしたが、それは明確に言うことができないことではないでしょうか。「感性」がそうさせたのだと思います。
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小学校3年くらいから中学受験をして、名門といわれる学校に入り、(もしかしたら御三家が不合格になって、第2志望で入った学校だという子も少なくないかもしれません)自分をさらけ出すことが苦手で、気位が高い現代の女の子たち。コミュニケーションが不得手で、生活体験が少ないという弱点が、他人との密度濃い共同生活を強いられる「修学旅行」という場面であからさまになったのではないでしょうか。子どもたちの中では、修学旅行のお風呂の時に水着を着たり、学校で大便をするのが恥ずかしいということはごく当たり前の感覚です。修学旅行を前に、班や班長を決めたり、みんなの行動を決めたりする中で、自分の希望も言えず、かといって人の要望も素直に受け入れられず、他人との距離感を探り合いながら、さぞや緊張をしていたのかも知れません。だから、ささいなきっかけで誰かが、激高して泣いてしまうと、それがみんなに飛び火して、みんな泣きまくったということでしょう。みんなで「泣く」という同じ行為をして、共通体験をしたことで本当の自分が姿を顕すことができる、そして姿を顕した本当の他人とはじめて対話ができる。それは涙で仮面を洗い流すという儀式であるのかも知れません。
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すごく回り道で、不可思議なコミュニケーションのしかたであると首をかしげるかも知れませんが、もしかすると特別な同経験がない普通の現代人にとっては、子供も大人も、この中学生と近いものがあるかも知れません。むしろ、泣くことで新しい発見をし、新しい関係が生まれた彼女たちはある意味で運がよかったとも言えます。仮面を脱げずにずっと時間が経ってしまうことの方が不幸であることにもなりましょう。
とにかく、青春はこれからが本番だ。
(MJ通信 雑感 1999.6)
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