考えてよ 学校、教師 !! (2000.11)

 考えてよ、学校、教師!!

 

 今年の光が丘三中の2年の夏休みの数学の宿題。6枚、計12項ほどのプリントで図形の問題があふれるほど並んでいます。範囲は中1から中2にかけての図形全般の復習ですが、習ったことがない難しい問題も多く、数学が得意な子が完全に理解しながら解いていったとして、一日3時間くらいずつつめてやっても10日くらいはかかるものです。答えは、解答だけが書かれていますが、解き方やヒントは無く、おまけに答えも10題に1題は間違っていました。数学が苦手な子にとっては、(誰かに習うのでなければ)わからない問題も多く、根気も続かないでしょう。締め切り間際に答えを写して、提出のつじつまを合わせるのが関の山でしょう。

 今年の富士高の1年の夏休みの宿題。表紙には「都立富士高」と印刷されていますが、オリジナルではなく、教材業者の学校向けのテキストです。量はそれほどではありませんが、特異な難問が並んでいます。よほど大学受験を知らない先生が選んだか、内容を吟味せずに問題レベルだけを基準に採用したとしか考えられません。9月以降の授業を考えると、1学期に習った「数と式」や「二次関数」を基本から繰り返し徹底させるような観点で宿題を課すべきだと思いました。

 この頃、区立中学校や都立高校では、宿題やテストが増えてきたように思います。でもその中で「あれ?」という問題も多く目に留まります。問題や課題は、各先生の「良識」に任せているのが現状で、特にチェックが働いていないようです。定期テストや補充プリントで、例えば理科では小数点が「・」でなく「,」であったり(この先生のプリントはずっとこうなので、先生もそう勘違いしているのでしょう。)問題文がとてもわかりづらい文章で、読み取り不能だったり、手書きのプリントがとても字が乱雑で誤字、脱字が多かったり・・・・。

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 公立中学の学力やモラルの低下、そして都立高校の学力低下と大学受験実績の凋落がいわれて十年くらい経つでしょうか。この間に都立高校入試制度はグループ選抜から単独選抜へと移行し、学区を超えても受験できるようになりました。一九六〇年代始めまでの都立高校の全盛時代の復活を目指してです。ここのところ、例えば、井草高校や大泉高校などでは、小テストが増え、テストで拘束することによって、全体的なレベルの底上げをはかる意図がありありとわかります。私立高校の受験実績の勢いに埋もれずに、進学校としての礎を築くために、学校側ものるかそるかといったところなのでしょう。(勉強については地方の県立の中堅進学校という感じで気合いが入っています。しかし、高校受験自体は、以前よりずっと楽になっているので、ますます中学校での勉強と高校の勉強の質・量の格差は広がり、中学校時代の優等生が高校で成績がメチャメチャということもよく見受けられることです。)

 また、区立中学でも、校長先生が陣頭指揮をとり、学校全体の学力レベルの向上を期して奮闘している学校も現れています。やがて「この学校は行事は盛り上がるが、勉強はあまり期待できない」というように、区立中もそれぞれの学校のカラーを掲げ、それを父母や生徒が選択していく時代が訪れるはずです。学校の裁量が広がれば広がるほど、学校間での教育サービスの質や量の格差は広がるはずですし、また昨今の越境入学の弾力化(選択の自由を認める働き)の流れを見てもそのことは明らかです。その過渡期にあたり、多くの区立の学校が学校を変えていく手段として、画一的なまでに、学校という権力をかざして、生徒の学力増強に取り組んでいるような気がするのです。

 しかし実は二〇〇二年からの学校改革は、このような流れとは、全く反対の意図で行われるものです。ことばで言うといささか抽象的ですが、それは「知識編重を脱して生きる力を養おう」とするものです。教科内容を3割減らし、「総合学習」に充てるのはそのためのわけです。実はこちらが先で、先に書いた私が感じる学校の方向性は、その反動であると考えるのが自然でしょう。「総合学習」と言っても、現実には、みんなが学ぼうとする意欲や学力のベースがなければ、広がりや成果に欠けるものになってしまいます。このように、公立校の教師は、やがて二極分化していく学校への危機感、学校という自分の職場環境を守るため、学力低下やモラルの低下をこれ以上助長しないように、学校が「いかなければいけない場所」であるという盲信を盾に、宿題や課題やテストの量を増やすことで学力向上を図っているわけです。学力があって、ちゃんと勉強する生徒を評価していけば、学校全体の規律やモラルがしっかりとするといったかんがえなのでしょう。個の教育を求める21世紀の教育の方向に反して、現場の学校では、ともすれば全体主義的な各画一化が蔓延しつつあるとも思えるのです。昭和50年代、レベルが低く、荒れ気味の中学校では生徒を運動部に入部させ、みっちりと体を疲れさせて非行の芽を摘むという指導が多くありました。今でも同じような発想をしている教師も少なくないと思います。また、「うちの子が怠けないように、テストや補習が多くて助かるわ」と思っているご父母もおられるでしょう。これと同じ発想で、今、学校は、テストの課題の量を増やすことでのみ「良き学校」を創ることに「努力」しているように思えます。

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 私は勉強させるのが悪いと言うつもりはありません。教師が、勉強をする目的や意味を語る努力が大事だといいたいのです。また、それぞれの子供の適性を考えて、導いていく努力が大事だと思うのです。高校2年生のとき、進路のアンケート調査や3年生での選択科目の調査用紙が配られ、指定の期日までに提出します。高校に入って勉強に追われて1年半、ようやく高校生活が楽しくなったばかりの頃です。多くの学校、教師はただこれだけ、紙一枚です。「まだ、提出していないものは早く出すこと。」と教師は連絡します。将来に惑う多感な高校生に、そして社会的な様々な知識や情報に疎い子供たちに、人間一人の人生に対するアプローチとしては、まるで貧弱なものです。生徒のいる位置に降りていく努力が足りないと思われても仕方がありません。「法学部って何?」「俺、何すればいいかな?」「親は大学行けって言うけど、俺は料理が好きだから専門でも行こうかな?」中学生でも同じことです。成績や進路の面談で、「お前、将来何がしたいんだ?」と話す先生は希有でしょう。「今の成績だったら、ちょっと志望校は無理だな。」で「はい、終了。」です。「数学ってなんで勉強するの?」「高校、行かなければいけないの?」生徒が心の奥底にしまっている様々な「?」に答えてはいないと思うのです。教師が、各人の人間の質を高め、教育力を高めて、子供たちに多く語りかける努力が必要であると思うのです。その営みをせずに、「はい、次の授業で小テストをします。できない生徒は平常点が下がりますから注意して下さい。」では、勉強する子は増えるでしょうが、学校の閉塞感が増すばかりです。そしてもう一つ、勉強が苦手な子たちのケアはどうするのでしょうか。部活も少なくなっているようなことも聞きます。勉強以外の居場所を確実に確保していくのも学校の役割だと思うのですが。

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 今まで公立のことを書いてきました。しかし、私は私学の多くも同じだと思っているのです。十年来、私立中・高の学校説明会に出席していますが、「うちの学校はお陰様で、四谷大塚の合判テストで偏差値○○になりました。」「お陰様で、今年は東大に合格しました。来年もこの勢いで実績を上げるために教職員一同がんばりますので宜しくお願いいたします。」「推薦基準は昨年の○○から○○へ変更します。いいお子さんがいらっしゃいましたら是非おすすめ下さい。」・・・・・・。右向け右で進学実績競争に奔走してきた私学です。どんな子に来てもらって、どんな人間に育てていくのかといった、人を育てるというビジョンはほとんど話されたことはありません。数字が先行するばかりです。

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 21世紀。「ゆとり教育」という今までと違った何かがやってきて、知育偏重や偏差値の重圧から解放され、子供たちの目がきらきら輝き、それぞれの子のもっている内面的な学ぶ意欲が湧き出てきて、生きる力が漲るようになる・・・・・・。残念ながら、それは絵空事です。教育や学校はもっと現実的なもので、制度を変えても、期待するほど何が良くなるかは疑問です。教師は、この不登校十数万人の時代に、学校の可能性をもう一度問い直す作業から始めなければなりません。そして自分自身を磨き、教育力を上げていくことが必要なことです。そして、そこから、一人一人の教師とその集団が方向性と信念とをもって子供たちに接することが課題だと思います。また、私たち保護者は、様々な場面で教師を育て、学校を育てていくように努力し、学校や教師がそれに耳を傾けようとする関わりこそが教育を理想の形に近づけるものだと思います。

(MJ通信  雑感  2000.11)

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