教育コラム 雑感
ーΔt→0(時間ティーが限りなく0に近づくとき)
テレビ番組の録画用のカセットタイプの記憶メディアが壊れたようで録画番組の再生ができなくなった。もともとは私専用で1TBのものだが、結局娘や妻に占拠されて、嵐出演の番組やドラマが詰め込んである。まあ安易に蓄えた貴重な財産といったところか(笑)
カタログの後ろにあるお客様相談センターの電話にかけると「お客様‥現在使われておりません。‥」まあ予想はしていたが‥。この手のメーカーはここ5,6年、企業の寿命を迎えたり、業績が頭打ちでグローバル企業として生き残るための吸収合併が進んできた。一昔前の銀行のように〇〇△△□□株式会社と名を変えているのは珍しいことではない。さてようやく〇〇△△に連絡が通じると、思いの外親切だった修理担当は、2つの選択肢を提示した。一つはHDが壊れていたら交換しかないが、それは無駄なので(新品を買うべき)そのまま返送、二つめはHDが問題なければ、データは取り出せないが、初期化して再び使えるようにして返送するということだ。つまり中のデータはすべて消去して、新しく使えるようになるということだ。
これを妻に伝えると、少し間を置いてから、どちらにせよ初期化しないで壊れたまま戻してほしいということだ。改めてその旨を担当者に伝えると、不思議そうに「…わかりました‥」と呑み込んだようだ。技術屋からしてみれば、オカシな選択なのだろう。妻がそうしようと思った理由を確認したわけではないが、きっと、今までコツコツ録り貯めてきた「楽しみ」を人の手、いやデジタルだからプログラムか磁気で一網打尽にリセットされるのには少し《時間》が必要だったのかも知れない。もしかすると数年先にデータが取り出せる技術の進歩に期待してたのかも知れないが、数年先にはこのメディア自体が、過去の遺物になっているにちがいない。いずれにせよエモーショナルな選択なのだろうと思う。話のレベルはずいぶん違うが、愛する人を失くした時の気持ちに近いものかも知れない。割り切るまでに時間が必要なのだ。少しずつフェイドアウトしていくことをココロが求める。
折しも合格発表たけなわの時期。昔は、一緒に受験した友達と掲示板の発表を見に行ったら、自分だけが受かっていて、その友達は不合格、喜ぶどころか、気まずい雰囲気で友達と泣きながら、ずっとベンチで慰めていたなんて笑えない笑い話もあった。電報が送られて《ミチノクノユキフカシサイキマツ》とかの文言が事実を語る。「ふーっ」と大きな溜息をひとつ。(笑) 今は、webで受験番号を入力すると、たちまち「不合格」の文字が出る。2進法のデジタル世界は容赦ない。その情報を受信する側も機械に同調するように二元論の結論を瞬時に認識することが求められているようだ。
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〈知らないことはスマホですぐ検索できる〉〈大量な答案を迅速に処理できる答えのみを書くテストばかり〉〈腹が減ったらコンビニ行けばいい〉‥‥。時代の進歩は、時間を限りなく0にする方向にも加速してきた。数学の記号を使うとΔt→0だ。しかし人にはある事実を受け入れるのに《時間》が必要な場合がある。そして時間をかけたプロセスこそが意味をもつこともある。それが人間らしいのだ。
この日本では、距離や時間に「間」(ま)があった。生産性という名のもと、限りなく短い時間に結果を出すことが、高い労働能力として評価される。そしてこのことは時に、生き方や、物事に対する姿勢、ひいては人間性の良し悪しにまで混同される。時間の中で効率よく処理できないとすべてダメのレッテルが貼られる。「間」が押す潰されている。
何を時間を短く効率的にすべきか、そして反対に何に対して時間をかけていいのか、かけるべきなのかを区別すること、それが問われる時代、それを選択する時代が『今』だろう。教育にはまさにそれが求められる。