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教育コラム 雑感 「天才はいない」がやって来た

  ふと電車の中や地下道の柱のポスターが眼に入る。そのキャッチコピーに思わず唸ったり、しばらく頭にこびりついて離れなかったことがあった。どれくらい前であろうか、企業も潤沢な広告予算を使い、紙の広告全盛の時代だったのかも知れない。才能あるコピーライターに脚光があたる。
 久しぶりにそんな(贅沢な感じの)広告がやって来た。新聞の一面広告だ。前時代的と言えるかもしれないが、新鮮な感じがした。新聞の広告だから、文字通りウチにやって来たわけである。

                 《天才はいない》

 新聞だから、もともと半分に折ってある。半面にこのわずか6文字のコピー  あとは青みががかった余白、そして下の方に島みたいに、頭(髪の毛)の上側が映る。空と未開発の無人島、無限の宇宙と地球のメタファーか。いや「脳」のクローズアップか‥‥…しばし想う。

 裏にしてもう半面をみる。無垢で知的で柔和な《芦田愛菜ちゃん》がいる。もちろん頭の上が切れている。巷の噂によると、女子御三家の中で、比較的自由なミッション系の女子学院(非公式略称JG)をケッて慶応中等部に進学したようだ。「あ〜愛菜ちゃんに理科を教えたかったな」と意味が分からない嫉妬を抱きつつ、このコピーでこんなことを考えてみた。


その1   「天才はいる」 愛菜ちゃんは天才子役だ。(笑)


その2   結局、このコピーの主張は「天才はいない」→「努力しないで合格はできない(A)」であろう。いや「努力すれば合格できる(B)」であるのかも知れない(AとBは論理用語で《裏》といい、ちがう意味である)が、このコピーが《努力》のススメを説いていることはわかる。
 さてこの《努力》であるが、「才能があるから努力ができる」は真理である。イチローも、そしてメッシも、アインシュタインもモーツァルトも、天才と評されるが、想像を絶する努力をしたであろう。才能があるから努力の成果が目に見える、成果が出ると新しい目標ができる、またそれを達成する‥‥という正のスパイラルの結果、彼らは天才に押し上がった。そうであれば反対に、才能がない者に《努力》を強いるのは苦行と同じ、いや虐待かも知れないという言い方もできるのである。「なぜお前は努力しないんだ」「結果が出ないということは努力してないからだろう」と怒る前に、《目標》と《才能》と《努力》の相対的な関係を見直してみる必要がある。いいコーチングというのはそういうことである。


その3   愛菜ちゃんは合格した。いわば勝者だ。それが光だとすると必ず影が存在する。極端な例示であるが、幼い頃から〇〇学校進学という使命を負わされ、勉強させられ、結果的に一点差で不合格になった子がいるということだ。勝者たる合格者に対してあえて不合格者を敗者と言うならば、例えば入試が3倍の倍率ということは、受験をした子の70%が敗者だということになる。それらすべてが努力しなかった結果であるわけがない。不合格がトラウマになったり、その後の人生に影響を与えることは容易に想像できる。もちろん合格しても本質的には同じことである。点数で評価される不安定な自己、不安と強制の中での受験勉強は成長する機会であるとともに成長できなくなる機会でもある。子育ては、ときに大胆になるべきことと慎重にするべきことがある。特に中学受験という競争試験は慎重であるべきだと思う。それは結果に対してではなくプロセスに対してである。

塾や予備校のキャッチコピーを少し挙げておこう。( )内はクリエイターの名前
 「天才はいない」 (早稲田アカデミー  渋谷三紀)
 「シカクいアタマをマルクする」 (日能研  不明)
 「夢を、人より長く見ろ」 (河合塾  真本 準)  ⇒予備校での一年分ね。
 「赤字は財産です」 (Z会  竹田芳章)       ⇒添削の赤ペンのこと
 「正解への近道は不正解です。」 (Z会  竹田芳章)       などなど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.04.30更新|MJ通信, 未分類