街探訪
壱ノ一
三ノ輪〜山谷 (繁栄の舞台裏)

  今日は、三ノ輪駅から出発して約3㎞の街探訪です。生粋の地元っ子でボランティアでガイドもする教員仲間、社会のS先生に案内してもらえる幸運に恵まれました。

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左が江戸後期の三ノ輪から山谷そして新吉原周辺 右は現在の地図。

浄閑寺

浄閑寺山門

【浄閑寺】

三ノ輪の駅からスタート。東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅は明治通りと水戸街道(国道6号)が交差する台東区の北の端にある。上野寛永寺の門前町として栄え、現在の台東区の西半分を占めていた下谷(したや)が細分された町の一つが三ノ輪となった。駅のすぐ北側の裏手に浄土宗の古刹 浄閑寺がある。場所は荒川区南千住になる。明暦元年(1655)に創建された。この2年後に起こる江戸最大の火事、明暦の大火(1657)によって日本橋の(元)吉原は消失し、この寺より約 ほど の ところに新吉原が移転する。この遊郭はこれ以後、三百年にわたる歴史を刻むことになる。安政2年(1855)の大地震の時、新吉原の多くの遊女がこの寺に葬られたことから、別名「投げ込み寺」と呼ばれるようになり、後の関東大震災、東京大空襲で焼死した遊女たちもこの寺に葬られた。新吉原開業以来からの数は二万五千に及ぶと言われる。浄閑寺裏の墓地には「新吉原総霊塔」が建てられている。そのすぐ前には遊女を偲び愛した永井荷風の詩碑と筆塚もある。侠客の墓石や山谷労働者の慰霊碑もあり、抑圧や差別を受けこの世を去った《名も無き民》に対する優しい眼差しを感じる。いやそれが本来の仏教の眼差しであるのだろう。狭いが個性ひしめく墓地だ。

浄閑寺の御朱印                           遊女のシルエットが背景

浄閑寺の御朱印 遊女のシルエットが背景

新吉原総霊塔                             「生きては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれている。

新吉原総霊塔 「生きては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永井荷風が描いた明治中頃のこの辺りの風景である。吉原から浄閑寺までを描写する。

 以下《浄閑寺と荷風先生  浄閑寺刊》より掲載  荷風の日記からの 抜粋ー今回のコースとは逆に辿っている。

「哀れな娼婦が白骨のゆくえを知らうと思ふ人あらば、哀れな娼婦が悲しき運命の弔はんと欲する人あらば、乞ふ吉原の花散る大門を出て、五十軒をを過ぎ、衣紋坂を上り、土手八丁、その堤を左へとたどりたどって行き給へよ。堤の両側はすこぶる美しい田園の光景を、行く人の眼の前にひろげるであらう。 右手は見渡すかぎりの水田を隔てて、小塚原や千住の青楼が、高く低く屋根をならべている。この一団の人家を越えては、所々に樹や竹やぶの茂りが青々と望まれ、そしてそのまた、かなたには、もし天気がすきとほるやうであったなら、隅田の上流を行く白い帆影が、幽かにそれとなく認められる、むろん紫の筑波山さへもが雲から見出されるのである。

目を転ずる堤の左側、そこにはだいぶ畠を埋めた新開の町に建てられた借家が居並んでいる。樹の茂りの間には高い屋根のお寺なども折々見られるのであろう。上野から日暮里、道灌山へおよぶ一帯の丘をおほふ森の茂り、いかにも心地よく眺められる。この美しいいい景色の間を行くうちにやがて屠殺場の、門前に来かかって血なまぐさい風に鼻をおほふことがあるけれど、しばらくのうちに行きすぎれば、堤の上は、古風な並木街道になってしまふ。

ここから、後ろをふりかへったら、吉原の遊郭は、木の葉の間からあ、一面に広い数知れぬ屋根だけを現はしている。角海老楼の時計台や、彦太、品川の取分けて高い建物の巍然として聳えている有様は、どうしても大きな城としかおもへない。足を早めてもう一、二丁も行くと、堤はほどなく尽きやうとして、高く築き上げられた汽車道が斜に、前面を横切っているのをみとめる。この汽車道の下にあたって一構への寺が位置どられてあった。

この寺こそ、薄命の娼婦が骨の朽ちぬべきところであるのだ。(後略)」

【泪橋界隈】

浄閑寺から日本堤に向かうまっすぐな道。水路は暗渠となり、江戸に生鮮野菜を届けていた田畑は、今では閑静な住宅街だ。真っ直ぐ進むと大通りに突き当たる。右が泪橋交差点だ。

泪橋(交差点)左が千住方面 右が山谷浅草    橋がかかっていた思川は暗渠となっている

泪橋(交差点)左が千住方面 右が山谷浅草 橋がかかっていた思川は暗渠となっている泪橋は大川(隅田川)に注ぐ支流の思川(おもいがわ現在は暗渠)にかかる橋で、浅草山谷からこの橋を渡った北側に小塚原刑場があった。ここが江戸市中と市外を分ける境界で、現在は荒川区と台東区の境になっている。小塚原刑場は、大和田刑場(八王子市大和田町)、鈴ヶ森刑場(品川区南大井)とともに江戸の三大刑場のひとつ。1651年に創設され、明治初期の廃止までに20万人ほどの刑が執行されたという。死体は埋葬というより、土を被せる程度だった。江戸の罪人はこの橋が最後になる。極悪非道の輩でも今生の別れを決するとき、目に光るものがあるのかも知れぬ。この泪橋、そして山谷を舞台にしたのが、約五十年前の漫画、学生運動のバイブルにもなった「明日のジョー」である。

泪橋は大川(隅田川)に注ぐ支流の思川(おもいがわ現在は暗渠)にかかる橋で、浅草山谷からこの橋を渡った北側に小塚原刑場があった。ここが江戸市中と市外を分ける境界で、現在は荒川区と台東区の境になっている。小塚原刑場は、大和田刑場(八王子市大和田町)、鈴ヶ森刑場(品川区南大井)とともに江戸の三大刑場のひとつ。1651年に創設され、明治初期の廃止までに20万人ほどの刑が執行されたという。死体は埋葬というより、土を被せる程度だった。江戸の罪人はこの橋が最後になる。極悪非道の輩でも今生の別れを決するとき、目に光るものがあるのかも知れぬ。この泪橋、そして山谷を舞台にしたのが、約五十年前の漫画、学生運動のバイブルにもなった「明日のジョー」である。

セブンイレブン 世界本店

セブンイレブン 世界本店

 泪橋の交差点の角に、セブンイレブン「世界本店」(日本堤2丁目店)がある。たいそうな支店名だ。ここには、1999年2月に閉店した山谷のシンボリックな立ち飲み居酒屋「世界本店」があった。その店の焼酎は山谷労働者の聖杯であり、一日の焼酎の売り上げは日本一になることもあった。

 

あしたのジョー                             泪橋は2つの世界をつなぐ一つの象徴だ。

あしたのジョー 泪橋は2つの世界をつなぐ一つの象徴だ。

 

【山谷 ドヤ街】

泪橋から南に進むと、少しずつ人気(ジンキ)が変わる。片手に缶ビールやワンカップを持った白髪混じりの初老の男がそここここで足早に歩いている。少し路地に目を移すと、座り込んで一杯やってる人も目立つようになる。群れているわけではなく、それぞれ自分だけの空間と時間を堪能しているように感じる。

簡易宿泊所が並ぶ山谷

簡易宿泊所が並ぶ山谷

4階建ての交番を通り過ぎると、間口をものものしい鉄のジャバラの門で覆っている居酒屋大林がある。なんでも1959年の山谷暴動の時の名残のようで、その日本堤交番(旧 山谷交番)もそれ以降小さな警察署ほどに頑強に建設されたらしい。山谷をドヤ街という。ドヤは宿(やど)を逆さにした呼称だ。大通りも路地も簡易宿泊所だらけだ。東京オリンピックの前年(1963年)の最盛期には222軒の宿があり、約15000人がこの山谷に居た。現在は約4200人が暮らすが、9割は生活保護者という。宿泊費は なぜか2200円が多く、2300円も見かける。

元 山谷交番

元 山谷交番

たまに見かける「冷暖房完備」「テレビ完備」が昭和の名残りを醸し出す。今は浅草や上野にも近いここで外国人の旅行者のチープな滞在場所として機能しているようだ。

もともとこの山谷周辺では江戸中期頃に日雇い労働者が集まり、そのために木賃宿も登場する。明治以後、鉄道網ができて、上野が上京する人々の玄関となり、さらに台東、荒川、墨田に工場が集まると、身寄りのない労働者は山谷に在留するようになる。関東大震災や東京大空襲は避難と再興の必要をもたらし、さらに山谷の特性を純化させる。こうして、昭和の高度成長期には労働者の街、都内随一の寄せ場になっていった。

右に折れると【いろは通り商店街】がある。つい最近 アーケードが取り外されたようだ。雨をしのいで集り、やがて住み着いてしまうホームレスの対策とも聞くが、商店街の復興は遅きに失した感がある。往時をしのばせる雰囲気はあるものの今はまさにシャッター商店街だ。通り抜けるといなせに上着を背にかけた色あせたジョーがいる。たまたま違法投棄されたと思われる寝具がその足元に置いてある。時代の流れを象徴する。IMG_2408

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