青に魅せられた画家(2)
ー北斎ブルー・広重ブルー

  2009年,二百年ぶりに「新しい青」が発見された。インミンブルーという。アメリカのオレゴン州立大学、材料工学を専門とするサブラマニアン教授のチームが 、全く用途の違う新しい素材を探し求める研究の最中に起こった偶然の産物だ。ペールホワイトのイットリウム(Y),黒い酸化インジウム(In)、そして黄色いマンガン(Mn)を混ぜた灰色の物質を加熱し、炉から出してしばらく経つと鮮やかな青い色に変わっていたことを発見し、青い色素の合成に至った。元素の頭文字をとって「YInMinブルー」と名づけた。

  新たな色の誕生は、色素を使う様々な業界へ波及する経済効果は年間数億円の規模にもなる。特許や実用化へのハードルを越えて、このインミンブルーもようやく最近になって、新色のクレヨンとして老舗メーカーに販路が開かれた。アズライトやウルトラマリンなどの鉱物由来の天然顔料は、時に希少で高価であったり、入手が難しいこともある。加えて絵の具として使う技術も必要だ。また露草や藍などの植物由来の顔料は定着が難しく、変色したりもする。それゆえ絵描きたちは合成顔料を渇望して来た歴史がある。そして新しい色を用いることでブレークスルーが起きる。作品に、芸術の潮流に。

  紀元前2000年、銅の削るカスに焼いたガラスの粉を混ぜたいわゆるエジプシャンブルーが
最古の人工で作った色素といわれる。その後、
1704年 プルシアンブルーがドイツのベルリンで開発
1802年 コバルトブルーがフランスで発見される。
インミンブルーはこの新しい青から約200年後の画期的な発見だ。
この後も、セルリアンブルーやフタロシアニンブルーなど青の進化は止まらない。

  プルシアンブルー(通称ベルリンの青という意味で「ベロ藍」)は、ドイツベルリンの塗料製造の職人ディースバッハと錬金術師のデイツペルが赤の顔料をつくろうとするとき、偶然フェロシアン化鉄の青い色素を発見した。インミンブルー然り、青の色素の発見の功労者はまさに「偶然」といえる。この発見は18世紀初めのことで、日本は江戸中期、元禄の後の宝永年鑑の頃だ。日本にベロ藍が入るのは、100年遅れた〈文化〉の頃、そして江戸市中に出回るのは、中国での大量生産によって安価になる1830年頃(文政末〜天保の頃)である。

  江戸時代、あっという間に浮世絵が浸透する。「美人画」「役者絵」は庶民にとってエンターテイメント誌、グラビア、情報誌、そしてアイドルのブロマイドとなる。最先端の風俗や流行を発信し、個性的な絵で魅惑する。職業絵師が浮世絵師だ。今の漫画家やデザイナーといったところである。希代の浮世絵師である葛飾北斎60代、歌川広重は30代、時代を築いた円熟の匠とそれを越えようとする新進気鋭の抒情作家は、この「ベロ藍」で作品を昇華させる。ベロ藍は墨のように、濃い青は深く、薄めると透き通る。今までの藍と掛け合わせることによって青の表現の幅が一気に広がったのである。江戸では折からの旅行ブーム。時流にのって、北斎は〈富嶽三十六景〉、広重はその2年後に〈東海道五十三次〉といった「風景画」を刊行する。

北斎ブルー。広重ブルー。青が変わった瞬間だ。

歌川広重 東海道五十三次  沼津 黄昏

歌川広重 東海道五十三次
沼津 黄昏

葛飾北斎 富嶽三十六景 金谷ノ不二

葛飾北斎 富嶽三十六景
金谷ノ不二

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