飛鳥山にあった渋沢邸は「曖依村荘」(あいいそんそう)と名づけられ、明治12年(39歳)から渋沢家の別荘として、明治34年(61歳)から30年間は本邸として利用された。
敷地面積28000㎡という中学校程度の大きさの敷地の中には、日本館と西洋館という母屋、そしてこれ以外に、茶室の無心庵、茶室の待合、邀月台、山形亭(これらはすべて1945年の空襲で焼失)、そして焼失を免れて現存する重要文化財となる青淵文庫、晩香廬があった。この青淵文庫と晩香廬は、いずれも東京帝国大建築科(現東京大学)出身で清水組(現清水建設)で技師長として活躍する田辺淳吉(当時38歳)の設計によるものだ。欧米を視察し、ウィーンゼツェッション(ウィーン分離派)の影響を受けた田辺の作風は、芸術的志向が強く、その繊細で端正な設計により大正建築の名手と評価される。大正9年41歳で退社し、中村田辺建築事務所を起こし、建築家として円熟の時期を迎えようとする矢先、関東大震災の復旧に奔走してしばらくの後、47歳の短い生涯を閉じる。日本女子大学成瀬記念講堂、みずほ銀行(旧第一銀行)京都支店、富山銀行本店本館(旧 高岡共立銀行)、誠之堂、日本倶楽部、旧第一銀行小樽支店など大正モダン建築を代表する数多くの作品を残した。
青淵文庫は栄一の論語関係の書物の保管庫で、シンプルな白い安山岩の外壁と端正なステンドグラスのコントラストが素敵な方形の洋館だ。
もう一つの晩香廬はバンガローを当てた洒脱なネーミングをもつ小さな山小屋風のゲストルームであるが、端正で味のある趣向が凝縮されている。
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「曖依村荘」の庭の作庭を手掛けたのは、2代 目松本幾次郎とその息子亀吉である。 この松本幾次郎は江戸の末期に生まれ、東京下町根岸を本拠として明治〜昭和初期にかけて活躍した庭師で、京都を中心に数々の名庭園を残した7代小川治兵衛と同世代の匠である。残念ながら、渋沢家の和風庭園は、1945年の東京大空襲で焼失し、今はわずかな名残を残すだけの空き地になっている。渋沢が飛鳥山に別荘を構えたのが栄一39歳、二代幾次郎が21歳の頃だから、この最初の段階で作庭をしたわけではないだろう。どの頃どのように渋沢家の庭づくりをしたのかは今では知る由もない。同じ時期。飛鳥山からわずか700m足らずの西ヶ原に、小川治兵衛が造った回遊式庭園の名勝「旧古河庭園」がある。震災や戦火から残った稀有な庭園だ。渋沢栄一と古河財閥は縁が深く、いずれも武蔵野台地の北端のご近所いうロケーションだ。《江戸東京》対《伝統の京都》の匠の技比べを見てみたかった。
その後、幾次郎60半ば、亀吉40の時、約4年余りかけて、新潟の豪商斎藤喜十郎の別荘の作庭をする。現在、国の名勝「旧斎藤家別邸」となっている。自然の海岸砂丘をもつ敷地の地形を活かし,砂丘を庭園背景の築山とし,穿った池に斜面から滝が流れ込む。開放的な座敷からのぞむと 立体的に迫り来る緑の迫力に嘆息する。座敷から俯瞰する景観、そして池の周りを散策すると幾次郎の作風である自然主義的な《無作為の作為》がよくわかる。この作風はやがて「雑木の庭」の創始者で、椿山荘を手掛けた飯田十基や小形研三に引き継がれていった。斎藤家別邸では13トンの巨石をはじめとして東京の大名屋敷から全国の名石や石造物を運び込む凝りようで、石に対するこだわりもまた幾次郎の特徴といえる。
現在の飛鳥山の渋沢庭園は、土がむき出し、雑草が茂る疎らな雑木林という様子で、古えを偲ぶことはできないが、時折草の間に顔を見せる、不揃いだが趣深い敷石や型のよい大きな石、無造作に置かれた灯篭や石の甕、そして熊笹に包まれた松を見ると、渋沢栄一が客人と談笑しながら散歩する姿、そして煙管をやりながら、遠くをみつめる一休み中の幾次郎の幻影がふと目の前に浮かぶ。想像力が演出するARだ。
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