一徹なアーティスト、そして風の詩人に遭う。
順路に沿って、田中の若き時代から晩年までの制作の軌跡を辿る。
田中信太郎 1940年生まれ
19歳で二紀展の褒賞を受けた美術界の新星
20歳で日本の反芸術運動の旗手であった前衛集団ネオダダ•オルガナイザーの潮流に漂う。悪趣味感に溢れる《音楽》という作品
28歳の《〇△□〝萌〟〝凛〟〝律〟》。大きな細い金属で、丸と三角と四角だけのシンプルな形を構成し、それ以外の要素を削ぎ落とす。作風が抽象化したミニマルな表現に変貌。
長く親交のあった、傑出したデザイナー倉俣史朗との写真も展示されている。
32歳 ヴェネチアビエンナーレに参加。様々に国際的な舞台へ
田中自身、この抽象化の過程を
「《何もないけれど、まぎれもなくあるようなものを作りたい》という思考によって制作していた」と語る。
40歳で病気そして闘病生活により制作活動から離れる
地下ロビーに下りると、1975〜1976年、病から復活し、精力的に活動した結晶が展示されている。
45歳 幾何学的ミニマルな造形からより自由な表現へ転換。異なる素材や手段を組み合わせて物語を喚起するような「饒舌な表現」(田中自身の言)
《風景は垂直にやってくる》
46歳 《そのとき音楽が聴こえはじめた》(ブリジストン本社ロビー彫刻)
この後もコミッションワークとして多数のパブリックアートを手がけていく。
2019年8月逝去(享年79歳)
姿がどんどん変わっていく。絶対的なものは何処に
田中のアトリエ(再現モデルを展示)には、40才で急死し彫刻家の盟友三木富雄の写真やメモが残る。耳だけをモチーフに作品を作り続けた「耳の三木」。
変わらぬもの、変わるもの。
年代や経験で、自分自身の内面が変容し、
変容するから表出するものが変わるのは当然だ。
螺旋の階段のようにその時の「彼らしさ」に向かって進化し続けていった。
そしてだからこそ、私たちは、人生の様々な場面を作品と共有できる。
変容の歴史は人生の歴史そのものに違いない。
生前、田中は語る。「最初から表現が一元的に確立した作家になりたいとは思ってないんですよ。あくまでもいろんな接点のなかで変化をし続けるような作家でありたい」と。
タイムトンネルを巡り、一つ一つの作品の前で立ち止まり、その時彼が何を伝え、何を吐き出したのかを感じる。そんなショートトリップだ。
徒花
どれにも一番、近くて、どれからも一番、遠いこと。
考えようとすることについて、考えてはいけない、考えていることについても考えてはいけない、そして、考えたことについても、考えてはいけない。
これは、これです。それは、それです。そして、あれは、あれです。
美は、鉛の陽炎。光の無いオーロラ、風景は、垂直にやってくるというのに。
網膜に、残像だけを記録する視覚、見えたものが、見えたままで
唯、見えるだけの無在のこころみ、
音に、影を与えなければ、匂に、色を付けなければ、限りなく嘘に近い真実よりは、限りなく、真実に近い嘘を愛そう、
逆立ちの、ランボーがゆき、風立ちぬ、
田中信太郎
記事にコメントする