横浜黄金町 ミニシアター《シネマ・ジャック&ベティ》
メリーさんが横浜に帰った。2006年の作品のリバイバル上映。
伊勢崎町ブルースが響く
この手の昭和歌謡、今どきはEGO-WRAPPIN’で聴いて新鮮に感じる。
演歌も、昭和歌謡も、ニューミュージックも、民謡も、ビパップもソウルもビッグバンドジャズもロックも浪曲も同じくらい溢れていた。
そう‥昭和は遠くなりにけり‥‥だ。
誰かが、メリーさんは風景だったという。
それはそうだろう。
いつもそのバショに在れば風景になるから。
別の誰かが言う。
メリーさんがいなくなって、時代は変わったと
昭和だからこそメリーさんがそこにいたのかということだ
そうかも知れないと思う。
昭和はいろいろな風景があった時代なのかも知れない。
それは特段 昭和が変わり者を許容する懐の深さがあったということではないし、多様性が保証されていたとかそんな結構なものでもない。わけのわからないモノが消えて無くなるほど、均質なものを良しとする感覚が育ってなかっただけのこと。みんな自分のことで精一杯で、関心がなかったのかも知れない。面倒だったのかも知れない。戦争を引きずってる人もいれば、旧い常識やモラルに束縛されている人もいれば、高度成長の波に乗っている人もいれば、こぼれた人もいる。散らかったまま、収拾がつかない、それだけのこと、そんな印象だ。
僕が高校に通っていた時、駅までの道でよく見かける人がいた。
トレーニングウェア姿で、きっと何かのひどい病気じゃあないかと思うくらいどす黒い土色の皺だらけの顔をしていた。背中をかがめて必死の形相で前の一点を見つめながら横を走って追い抜いて行く。いや、時には向こうから来てすれ違う。
「ハァハァ フゥフゥ」と正確にリズムを刻み、歩くより少しばかり早いくらいの速さで通り抜ける。日々休むことなく同じことを繰り返しているようだった。
何十年かした後、たまたま沢木耕太郎の「敗れざる者たち」を読んでいると
その「人」がいた。「さらば宝石」に天才打者Eがいた。
『引退して数年たつのに、Eは依然として3時間から6時間のハード・トレーニングを自宅で続けている。(中略)いつかどこかの球団が自分を必要として迎えに来てくれる、と頑なに信じ込んでいるらしいというのだ。』(引用)
最後に、このEが長嶋と同時代を生きた天才打者榎本喜八だと記してあった。
たしかに脳裏にこびりついて離れない。あの悲痛な顔相、そして息のリズム。
街にそんな風景はたくさん存在した。新宿駅の隅っこには、顔と胴体しかない傷痍軍人がアコーディオンを奏でていたし、丈も襟も際どく長い学ランを身に纏って、身体を斜めに立て、誰彼かまわずガンをつけて睨み続ける奴が、改札の傍にいつも立っていた。熱海の夜、道沿いの街灯の脇には眉毛を剃った年増のおばちゃんがポツリポツリと等間隔に並んでいたし、丸い背中のせいでうつ向いて眼鏡の奥から上目遣いで見る近所の駄菓子屋のおばあちゃんもいる。新宿のタイガーマスクも、ボロボロの黒いマントみたいなのを羽織って、沢山の荷物を引きずっているホームレスの小太りのあのおばさんも‥‥。
たしかにメリーさんは風景だったのだろう。
建物や電柱と同じように、見るといつもそこにあった。
それは変わらないことを意味する。
気の遠くなる月日
変わらない‥‥、変えない? 変えられない?
昭和という目まぐるしい変化の中で、周りの変わっていくスピードに取り残ったのかも知れない。
元次郎さんのシャンソン「マイ•ウェイ」が優しく強く耳に残る。
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