藤田 Foujita FUjita
ー借り物の迷作「アッツ島玉砕」

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 見方によって印象が変わる絵だ。もともと絵を含めて芸術的な表現はそういうものであろうが。

 累々と積み重なる屍におぞましいと思わず目を背けるかも知れない。反戦、厭戦の感情がふつふつ湧き出すかも知れない。また一方で、聖戦に命を懸ける侍たちの姿に改めて鼓舞され、敵に対する憎悪の感情が増すかも知れない。いやもしかすると、遠い北の島で国のために散った神軍に対し静かに哀悼を表する鎮魂の絵図ともいえる。その人のその時の心を写す鏡のように変幻する絵である。

 展示の三ヶ月前に「玉砕」(この時初めて玉砕という言葉が使われる)した山崎部隊の奮戦とその〈見事な〉最期について、ラジオ放送や新聞は繰り返し取り上げた。そしてさらに「藤田画伯の大作成る」という鳴り物入りの宣伝に導かれて押し寄せた観客は、その絵の前に立ち、それぞれに様々な想いを馳せたのには違いない。坊主頭の子供も、戦争で息子を亡くした老婆も、そして指揮をとった司令官もいたはずだ。

 晩年の手記で藤田本人は語っている。

(前略)単独で会場に滑り込んで居た私は、そのアッツ玉砕の図の前に膝まづいて両手を合わせて祈り拝んで居る老男女の姿を見て、生まれて初めて自分の画がこれ程迄に感銘を与え拝まれたと言う事はまだかつてない異例に驚き、しかも老人たちはお賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目して居た有様を見て、一人唖然として打たれた。この画丈けは、数多くかいた画の中で尤も快心の作だった」と。

 もちろん〈異質〉な絵にはちがいない。生々しい白兵戦をテーマにひとりひとりの面容まで緻密にクローズアップし、敵のアメリカ兵だけのようではあるが、ここまで多く血の気のひいた累々とした死体をリアルに描いた作品もそれまでにはなかった。国威発揚を期する下で、戦争の残虐さや悲惨さが伝わるような諸刃の剣となる表現は陸軍大本営にとって当然必ずしも歓迎されるものではなかったであろう。実際この作品は、アッツ島での全滅を知った藤田が、軍から依頼されてではなく、自発的に想像の上で描いたもので、敗北の場面を題材にしたこの絵の献納については軍内部は反対意見もあったと聞く。

アッツ島玉砕(部分)

アッツ島玉砕(部分)

 昭和189月、上野の都美術館で催された陸軍美術協会主催の「決戦美術館」で藤田嗣治の200号の大作「アッツ島玉砕」絵がはじめて展示された。日本帝国が瓦解に向かって少しずつ後ずさりしていく頃である。そしてこの後、北の島で散った勇敢なる烈士を讃え、鎮魂の意を込めて巡回展示される。この時、還暦間近の藤田はその陸軍美術協会の理事長である。

 藤田は、西洋画の本場パリに留学以来15年余を過ごし、フランス美術やイタリアルネッサンス絵画を吸収し、日本画と西洋画をミックスさせてフランス画壇で確固たる地位に登っていく。純粋でナイーブな優美さを有し、女性や猫を独創的に描くFoujita はパリを沸かせる。その後、戦争の足音に同調するように、1930年後半からは東京に拠点を移し、軍の要請に応じて戦争画を描いていく。エコールドパリの一端を担った絵とはまったく異なる作風である。流行の最先端にいた彼が古典的な西洋画に遡行した印象である。戦争画によって新しいフジタとなったのか、新しいフジタが戦争画を通して完成していったのか。

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 いわゆる戦争画とは日清・日露戦争以降、従軍画家や内地で軍の要請に協力する形で、戦地や兵隊を題材に軍の宣伝や国民の戦意高揚や国策を応援することを目的とした絵である。特に日中戦争以後、物資が不足する状況下で、軍から画材の供給を受けることは画業を継続するため一つの選択肢となる時代だ。むろん反戦を貫く画家もいた。当時、画家である前に国民として絵を通じて奉仕すべきであるという気持ちと自由な表現者として軍に加担しないという位置を守るべきであるという相反する考えの中で、画家たちには少なからず葛藤や苦悩があったにちがいない。

 藤田は、多くの他の画家と同じように日中戦争に従軍して〈作戦記録画〉を残すが、むしろ日本が劣勢になる43年頃から旧来の戦争画と違う作品を精力的に描き上げる。その営為は、単に軍の意向に基づいた戦争画家という枠ではなく、西洋画の真髄を知る画家の集大成として、人間が普遍的に創る負の「戦争」という壮大なドラマを「物語画」として完成させようとする試みのように見える。

鴨緑江会戦(日露戦争) 1904 楊斎延一 (明治期の浮世絵師)

鴨緑江会戦(日露戦争)
1904 楊斎延一
(明治期の浮世絵師)

三笠艦船の図 日露戦争 東城鉦太郎 1926

三笠艦船の図
日露戦争
東城鉦太郎 1926

南苑攻撃図(日中戦争) 宮本三郎 1941

南苑攻撃図(日中戦争)
宮本三郎 1941

 

 

娘子関を征く 小磯良平

娘子関を征く
小磯良平

 藤田研究の第一人者である林洋子氏はこの「アッツ島玉砕」について「1920年代後半以降藤田が追求してきた大画面の群像表現のひとつの到達点であろう」と評している。

 たしかにこの「アッツ島玉砕」やこれに続く「サイパン島同胞臣節を全うす」は、ダ・ヴィンチ、ルーベンス、ゴヤ、ジェリコ、ドラクロアなどの大型の西洋物語画を連想させる。

 

東方三博士の礼拝 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1481年

東方三博士の礼拝
レオナルド・ダ・ヴィンチ
1481年

幼児虐殺ルーベンス1611年

幼児虐殺ルーベンス1611年

ゴヤ マドリード1808年

ゴヤ マドリード1808年

メデューズ号の筏 テオドール・ジェリコー 1818〜1819

メデューズ号の筏
テオドール・ジェリコー
1818〜1819

十字軍のコンスタンチノープル入城 ドラクロア

十字軍のコンスタンチノープル入城
ドラクロア

 藤田はこの絵を一日13時間、取り憑かれたれたように没頭して、わずか3週間で描いたという。ある意味、〈戦争〉は芸術家にとって、人間の極限の状態を写し取れる絶好の機会といえる。〈死体〉を描いた多くは西洋の宗教画や戦争画である。では戦争画が伝えるべき「物語」は何であろうか?それは、狭い意味では日本の戦況や軍神〇〇隊長の奮戦の様子である。しかし大きな視点でいえば、〈戦争〉には、人間が創造した最大の愚行をしているという物語があるではないか。つまり戦争をリアルに描くことは、人間の罪深さを表現することになる。もしかすると、藤田はそこを突いたのか。だから画家は目の前の〈戦闘〉を冷徹に客観視して描けばよいのだ。そこに感情やイデオロギーの入る余地はなく、淡々と筆を運べばよい。ダヴィンチの解剖図のように。

 藤田自身この絵について言っている。「昔の巨匠もチントレットやドラクロアでもルーベンスでも、皆んな、本当の戦争を写生した訳でもない。(中略)私なんぞはそのおえらい巨匠の足許にも及ばないが、これは一つ私の想像力と兼ねてからかいた腕だめしといふ処をやって見ようと、今年は一番難しいチャンバラを描いて見ました。」とある。フジタにとってはアッツ将校らの玉砕の血戦をあえてチャンバラと表現することで、画家が絵の対象に向かうべき態度について一席打ったのかも知れない。

 会田誠はこの絵を見てムズムズしたと言っている。画家の魂いや職人の機能快が共振したのかも知れない。僕には、藤田の「アッツ島」と会田の「ジューサーミキサー」は繋がっているように思える。

会田誠 ジューサーミキサー

会田誠 ジューサーミキサー

 

ザク(戦争画RETURNS番外編) 会田誠

ザク(戦争画RETURNS番外編)
会田誠

 敗戦を迎え、GHQ管理下の新生美術界となると、多数の戦争画を描き、軍部に加担して国民を煽動した指導者としての責任を一手に被る形で藤田は日本画壇から追放される。結局「戦犯」藤田はGHQの協力をとりつけアメリカに渡ることができた。そして日本を離れた後、再び祖国の土を踏むことはなかった。「私が日本を捨てたわけではない。日本が私を捨てたのだ。」日本国籍を捨て、フランス国籍となったLéonard Foujita(レオナールフジタ)は言っている。

 今ではフランスで最も知られた日本人といわれるほどの当代きっての人気画家であったフジタの作品は、現在、フランスやヨーロッパの有名な美術館で多く所蔵され、もちろん日本の多くの美術館も所有する。そして1933年頃から1945年の間に藤田が描いた戦争画のほとんどは他の戦争記録画と合わせて東京国立近代美術館に一括して現存する。終戦後、日本国内で集められた153点の戦争記録画は、戦利品として、または戦争プロパガンダの証拠品として、そして再び鬼畜米英の気風が巻き起こることを回避する目的でアメリカに接収され本国に運ばれるが、やがて時間の経過の中でその意味と目的は風化し、米軍施設に置き去りのこれら戦争記録画が発見され、1970年代になって〈無期限貸与〉という形で供出されて、今、東近美(東京国立近代美術館)にあるのだ。藤田はこれらの絵がアメリカに移送される直前、企画中のアメリカでの展示のために「アッツ島玉砕」の絵にもともと記した漢字と紀元暦のサインを自らアルファベットと西暦の〈1943 T.Fujita〉に書き換えたという。終戦直後の混乱の中でさらに新たなFujitaが自由に世界を羽ばたくことを想っていたのか。

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