《倍賞千恵子》演じるミチの深い皺の陰影、老いたナイーブな表情が際立つ。まさに名優の演技である。あの生真面目な寅ニ郎の妹さくらが時折見せる困惑した表情と同じだ。
ミチは職を失い、そして住んでいる団地が取り壊されることをきっかけに生活が追いつめられる。生きていく意欲それ自体が萎えていくのだ。「生産性」が低い老人に冷酷な社会、そして「自己責任」という圧力がじわじわと社会的弱者を押しつぶていく。結局彼女は《プラン75》を選択する。《プラン75》とは、少子高齢化が一層進んだ近未来の日本で、75歳以上の高齢者が自らの命を苦しまずに絶つことを選択できる、国を維持するための「やさしい」施策である。
2016年夏、相模原の障害者施設《津久井やまゆり園》で元施設職員で死刑囚の植松聖が「障害者はいなくなればいい」 と19人を殺害した。その後も「事件を起こしたことは、今でも間違っていなかったと思います。意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在。絶対に安楽死させなければいけない」そして「リンカーンは黒人を(奴隷制度から)解放した。自分は重度障害者を生み育てる恐怖から皆さまを守った、ということです」とまで語る。(2019年4月8日神奈川新聞)
映画「プラン75」《早川千恵》監督はこの事件の衝撃が作品製作の原動力になったと語る。冒頭のシーンはそれを連想させる。
漫画家 《浅野いにお》の「TEMPEST」。こちらの短編漫画ではもっと過激で重層的に高齢者の行く末が展開していく。
超高齢化によって多くの自治体の財政が逼迫する中、85歳になると老人たちはいったん国に《人権》を返納する。そして「高齢者特区」で5年間介護・医療サービスを受けた後、90歳で「老人検定」を受検することになる。この5年の間は「自死サービス」をいつでも受けられる。自由に楽に死ぬことができるのだ。9割の老人がこのサービスを利用する。「貴重な若年層への思いやりを持って。ご理解下さい」と演説する国会のシーンが描かれる。さらに、もしも検定に不合格となれば、人権のないまま特区を去らなければならない。一般市民からの通報一つで「処分」される。それが国のシステムだ。
特区の老人施設中、数十年前に法案を通した時の老いた元首相がひとりの老人と話す描写がある。
「生きる意志があるのなら「老人検定」でふるいにかけられればいい。人間は競争と生産の中で初めて輝けるのですよ。」元総理大臣は語る。
一老人が返す。「…人は国のための機械ではありません。人間らしさとはまた別の話だと思いますが…」
その一人の老人は、自らの意思で「老人検定」を不合格とし、結局、着る物も与えられずに街に放出される。人権のない《モノ》として。そしてベンチに座っているところを市民に通報され、……。
彼が妻に宛てた手紙の中にこうある。
「人は皆、善意に取り憑かれています。それが独善や誤った正義であったとしても、一度吹き荒れてしまった価値観の嵐に私はただ飲み込まれるしかないのでしょうか。」と。
《生産性》という言葉がビジネスの世界で標語のように繰り返される。それはいつの間にかムードになって社会のあらゆる場面に浸透する。ついに世の中それ自体が効率を優先し、無駄なものは排除するようになる。
しかしそれは実は今に始まったことではないかも知れない。映画「楢山節考」では、老人は70才になると口減らしのために自ら子に背負われて山に往く。この《姥捨山》は、伝説ではあるが、貧しい農村の共同体の中、目に見えぬ圧力がそう決意させることもあったであろう。人間は「貧すれば鈍する」のだ。「貧しくとも豊か」なんて幻想に過ぎないのであろうか。
生きている存在、それ自体に敬意をもつことがだいじな事はわかっている。ではその《敬意》はどうすれば育つのか?《生きている》とはどの状態のことを言うのか?そして、生きる自由があるならば、死ぬ自由もあっていいのではないか?と疑問は連鎖する。個人の自由と社会の関係はそう簡単な話ではない。
少なくともぼくは国に命をコントロールされるのも御免だし、90歳で老人検定の受検は遠慮する。(笑) もちろん大義名分をかざした訳のわからん奴に殺されるのは最悪だ。彼の「やさしさ」は優しさとは違うと思う。今、「命」の感覚が培われる場は「家庭」でしかなくなってきている。最後の砦だ。そしてぼくが属する一番小さな社会である《家族》とは自分の行く末について対話する必要があると思っている。
そろそろ《人生会議》を始めようか、なんて少し思った。
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