8月中旬、鮎を食す。
秋川のたもとにある「割烹 川波」。秋川の鮎はいわゆる江戸前というふれこみだ。江戸前?都会を流れる多摩川の支流に、清流を遡上するこの川魚の女王が……、はたして本当に美味しいのだろうか?
かの魯山人は「東京であゆを食うなどというのは断念したほうが良い。多摩川にもいることはいるが、川が適しないためか、さっぱりだめだ。かつて多摩川のあゆでうまいのを口にしたことがない。」と言った。彼は丹波の和知川のあゆを最高としていたようだ。一方で、歴史的には、江戸時代、多摩川産のあゆは御用あゆとして将軍家に献上され、多摩川はあゆの漁場として有名であった。昭和初期までは良質のあゆが多く漁獲される川として、全国でベスト8に数えた本もあったくらいだ。東京都の水産試験場が創設された1928年(昭和3年)の報告書には〈本府の巨流たる多摩川は水源を山梨県の山間部に発し、水量豊富、水質また極めて清冽にして、古来よりアユの名産地としてあまねく東部人士の味覚をそそり、また遊漁者憧憬の的となり、…(後略)」とある。また、村井弦斎は1976年に著した『食道楽』の中で「だいたいアユの味は、川によって違う。多摩川のアユより相模川が上等だし、酒匂川がより勝れる。一口に多摩川のあゆがまずいというが、羽村の堰(注1)から上になると、鼻曲りアユ(注2)と称して味も好い。…(後略)」と先の魯山人の多摩川のあゆの評価に対抗しているようにも思える。いずれにせよ一昔前、多摩川のあゆは広く人々の心にお口にと愛されていたのだ。
1960年代、高度成長下で急速な人口増加によって工場や家庭からの排水や汚水が多摩川に流入し水質が著しく悪化する。当時多摩川のあゆは絶滅したといわれた。70年代になると日本全土で様々な公害や環境破壊が問題になり、自然保護や環境保全は最も重要な政策課題となっていく。美濃部都政による行政の取り組み、流域住民の環境運動など一連の努力が実を結び、多摩川では1970年半ば頃から水質の改善がみられていく。そして80年以降には天然あゆが再び遡上することが確認され、90年になると遡上数は百万匹を超えた。この後も漁業組合などの流域団体による堰の改善や魚道の改良・整備の努力によっておよそ1000万匹の遡上数まで増えるに至る。現在、この上流の秋川まで遡上するあゆは「東京秋川アユ」としてブランド化に取り組み、はるばる東京湾から上ってきたこの「江戸前アユ」が都民にとっても再び身近な存在となることを目指している。はるばる遡上といっても、今は、漁協が放流するので東京湾から60キロを上ってくる鮎とは限らないが。まあ江戸前のDNAをもつ若鮎が秋川の苔で育っているには違いない。
美味しい鮎の条件は、食べている川底の石につく苔にあると言う。鮎が香魚と言われる所以だ。スイカとかキュウリに似たほのかな香りがする。だから食通ともなれば石の種類や苔の生え具合に至るまで蘊蓄を語る。また漁法も重要のようだ。とも釣りで掛かる鮎は、自分の縄張りを守ろうとするいきがいい奴だ。追星という黄色い斑点がその証しだ。網で捕る場合は、必死に逃げようと動くあまり、傷がついたり川底の砂を飲み込んだりする。味が違うのだろうが、僕は食通といわれる人の味覚もそれほど信用していない。もちろん自分の舌こそ一番怪しいものだが(笑)
さて、風情のある佇まいの「川波」の座敷で、すぐ横を流れる秋川を見ながら「鮎づくし」を頂く。そして夏を感じることができる。ここは数が揃えばすべて秋川の釣り鮎を使う。板前さんも仕事がオフの時は釣り人になる。だから鮎のことを知り尽くしている。鮎の刺身は〈背ごし〉といって独特だ。身が小さいので背骨も入れて輪切りにする。CTの断層撮影のよう(?)に皿に並ぶ。〈うるか〉は鮎の塩辛。何とも奥深い味で、酒飲みには堪らないのはよくわかる。が、医者から減塩勧告が出された僕にはいささか塩っぱい。やはりメインは塩焼だ。カリッとした皮を摘むと中から蒸したような湯気が上がる。ホクホクの身が何とも言えず美味い。肝のほのかな苦味も絶品だ。焼き方、塩加減と職人の技に感服する。
9月半ば、山梨県の桂川に鮎釣りに行ったという近所の方から型のいい綺麗な鮎を数匹頂いた。焼いて食べると卵が入っていた。産卵のために上流に流れた「落ち鮎」だ。これもまた上品で旨い。高級な柳葉魚に似ている。
もう秋だ。どうやら今年は幸運にも鮎に気に入られた。
そういえば、ちょうどこの時期岸田内閣の第二次改造内閣が発表された。こども担当大臣に新入閣したのが加藤鮎子氏だ。〈加藤の乱〉で涙をにじませ立ちつくした姿が今も思い出される加藤紘一氏の三女である。鮎子……、おそらく現在は女の子に「鮎」をつける親はそう多くないだろう。昔は鮎美さんもいた。父親の鮎釣り好きが高じてとか、鮎の解禁日に生まれたとか、はてまたサザエさんの大ファンとか……笑。いや実際、日の光に輝いて跳ね上がる銀鱗のしなやかな躍動感に魅せられて命名することも少なくなかっただろう。それは清流の女王のイメージに重なる。この加藤氏の名前は〈忘れずに故郷に戻ることを期して〉命名されたと聞く。鮎は年魚だ。稚魚は海へ行き、翌年の春に若鮎の姿で再び自分の生まれた川に戻って一生を終えるのだ。実際彼女はそのように人生を歩み、そして今再び大海を目指す。
しかし僕にはつけられない名前だ。嫁ぐ娘に「いずれ必ず実家に戻って来い」とは言えない。 笑
(注1) 羽村の堰 江戸の人口が増えたため幕府が多摩川の水を江戸に引く玉川上水へ水を引き入れるために建設した羽村市にある取水堰。河口から54km上流の承応2(1653)年に完成。傍の広場には上水の建設に尽力した玉川兄弟の像が建っている。
(注2) 鼻曲り鮎 渓谷の急流にもまれて遡上する鮎は口の筋肉が発達して上あごがこぶのようにふくらんで曲がり、身が引き締まって美味しいといわれた。
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