住職の寺は真言宗智山派、私の家も同じ真言宗だからお経は聞き慣れた文言が多かった。隣に住んでいて幼い頃から慣れ親しんでいた私の爺様やおばあちゃんが亡くなったのは私が小学生から中学生の頃だった。昔のことだから繰り上げ初七日などの省略形の儀式など無く、通夜、葬式、初七日、四十九日、一回忌、三回忌…とひとつひとつ厳かにとり行い、故人があの世のステージをゆっくり登っていかれるように尻を押してあげていたのだ。〈厳か〉と言っても私にとっては「またかよ…」と、『よくそんな形式ばった同じことの繰り返しができるものだ』と内心思っていた(だろう)。
弘法大師さんにはしっかり見透かされていたと思うが…。
この頃は、人生で最も記憶力に長ける時期である。同じお経の繰り返しを何十回(いや百回単位かも知れないが)と聞かされているうちに、まあ共通なコア(真言というのであろうか)の文言を私が覚えてしまったのも不思議ではない。もちろんことばだけでなく坊さんの抑揚やリズムも、である。まさに〈門前の小僧経を読む〉だ。偽の坊主を演じてお経を上げることもバレずにやれる自信はある。まあ地獄行きは覚悟しなければならないが。(笑)
通夜の席で私がお坊さんと同時に読経していたことを隣に座っていた娘がとても不思議がっていた。時間がなくて返答していないが、それが理由だ。
さて、読経は進み『そろそろ終盤かなぁ』と思っていると、〈歌〉に変わった。メロディがついたのだ。独特な節まわしで住職は朗々と歌う。これがまた長かった。(笑)
同じ真言宗でもウチの豊山派には〈謳い〉は無い。今までに幾度となく弔いの席に参列したが、何度か、お経が歌に転じる時はあった。天台宗や曹洞宗のような武士社会の宗教では無かったと思う。やさしく流れるような平板的な響きで、お経の延長のように始まるが、民謡や演歌のような節があった。
「ゴスペルじゃん」と思った。でもみんなで合唱するのではなくお坊さん一人で歌う、だから根本的に異なるのかも知れないが、歌が死者やそれを悼む人々に対して経が謡になる何かがあるのかも知れないとふと思った。
人は歌を歌う。
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