新学習指導要領その後
教育実習の思い出 そして「塾」 (2002.6)

新学習指導要領 その後

 光が丘3小・田柄3小・豊渓小・北原小などでは、5年生以上の算数の授業は、2クラスを3つに分けて、クラス人数を少なくした分割授業を行っているようです。分け方は、学校によって、「算数得意」「ふつう」「苦手」として、生徒の自主選択にまかせている場合もあれば、学校側で各人のクラスを指定しているところもあり、また、出席番号順に機械的に振り分けている場合もあるようです。小人数を意図する学校や、習熟度別(学力別)にしていこうとする学校など、対応はまちまちです。また、現段階では、高松小や光が丘5小は、この算数の分割授業は行っていないようです。この習熟度別(学力別)授業では、塾では当たり前ですが、学校、とくに公立の小学校でやるべきか否かは議論が分かれるところで、

  1. 学習の効率は上がるかも知れないが、学校って「効率」をもとめるところなの?
  2. 「できる」「できない」の評価はいったい何の尺度で決めるの?
  3. キミは「できるクラス」「できないクラス」とレッテルを貼ることで、生徒自身がそう思い込み、クラスが硬直化してしまう心配はない?
  4. 「できる」「できない」とふりわけることによる人間関係の変化(差別観の増長など)にマイナスはないの?

 など、反対意見は根強いものがあります。「小人数の授業」と「習熟度別授業」は全く異なるものです。今回の新指導要領を機に、改めて各学校の動向を見守っていきたいと思います。

教育実習の思い出 そして「塾」

   高校生の授業中、学校の勉強の進み具合をたずねると、「今、教生(教育実習生)が教えているんだ。」という声が多くなります。当塾のスタッフで、大学入学後からずっとお手伝いをしてくれているOG2人も、この6月、そろって教育実習が始まります。一人は物理、一人は体育と、高校の実習授業の指導案づくりに励んでいます。私も○十年前を思い出します。時は80年代前半、校内暴力や家庭内暴力、暴走族などが社会問題化している時代でした。当時から、大学の勉強より塾の方が本業だった私は、スモールサイズの私教育の「塾」の可能性に賭け、卒業後も「塾」で仕事をすることに決めていました。今風に言う「フリースクール」の萌芽がそこかしこに見え始めた時代かもしれません。「塾」に活力が漲っていた時代です。最近とみに思うのが、どうやらこの「塾」という言葉の定義が世間と私とではだいぶん違うということです。私の中では、昔も今も、塾≠進学塾(または補習塾)です。幕末の乱世に有為な人材を輩出したのは、まぎれもなく「塾」でした。でもだれもあれを進学塾とは言わないでしょう。私は、子供たちの可能性を育てるのが塾の役割で、その一つの手段が勉強だと考えています。「じゃあ、あなたは、勉強以外に、他のどんな手段で可能性を引き出しているの?」と問われると、言葉を失います。「だったら、進学塾じゃあないの。」といわれるかも知れません。でも、もともと「塾」がもっている子どもたちとの距離感がすごく重要なキーポイントだと思っています。おそらく、私たち塾の教師は、子どもたちにとっては、親以外で初めて「継続的に、身近な距離で」接するオトナだと思うのです。その距離感は、親とも学校の先生ともピアノの個人指導のレッスンとも違います。例えば、こんなこともありました。

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 昨年、高校の授業の後の雑談で、ある男子生徒が、「先生、ぼく彼女できたんだけど、いいでしょう?」とうれしそうに言うのです。彼は私が「へえ~、やったなぁ、どんな子?。」とでも言うかと思ったのでしょうが、私は、「彼女なんていないほうがいいよ。」と真顔でいいました。彼は、少しばかりむっとした表情で、「なんで?」「だって、彼女がいると、彼女のフィルターを通してしか、自分が見られないじゃん。これをしたら彼女喜ぶかなぁ、これをしたら、彼女に嫌われるかなぁとか。もっともっと、自分ひとりと向き合わなきゃだめなんじゃない、高校時代は?」と言いました。(高校時代の私がそのクラスにいたら、指をくわえて、いいなぁと横目で物欲しそうに見ていたかも知れませんが・・・・・。)彼は、私の言うことの意味がわからないというように、その話を打ち切りました。私は、彼だから、あえてそう攻撃したのです。高校時代の3年間、将来を考えるにはあまりにも短すぎます。中学時代に勤勉だった彼が、高校に入って、なんとなくふわふわしているのが残念で、あえて批判的な意見を言いました。彼の頭の中に少しでも「?」が増えてくれればいいなと思っています。

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 これは、一つの例ですが、私たちが、大人として、様々に子どもたちの発する声に応答している塾の雰囲気が作り出す何かがあると思うのです。授業内外で、教科を教えること以外に、黒板に書いてあること以外に、子どもたちとの心のコミュニケーションをしているはずです。たしかに、それは勉強を教える上での「副産物」かもしれません。でも、結果的にその「副産物」が彼らの人間性に寄与したり、彼らの可能性の扉を開く鍵になっていくと思います。人が人を教えることは、そういうことではないでしょうか。子どもたちは、私たちの語る言葉、いや一挙手一投足を見るだけで、たちまちに、私たち大人の欺瞞を暴いてしまいます。たちまち大人に幻滅してしまいます。だからこそ、私たちには、教える技量以上に「良質な大人」であることが求められるのです。

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話は○十年前にさかのぼりますが、教育実習の初日に、私は数名の実習生仲間に、こう質問しました。 「何で学校の先生になりたいの?」返ってくる答えは「だって先生って楽じゃない。休みも多いし・・・・・。」私には、首を傾げる答えでした。というのも、当時、子どもたちの中に、学校や学校の教師に対する不信感が渦巻いているのを、私は目の当たりにしていたからです。だから、「何て、時代感覚がないんだろう。」と思えたのです。私にとっての実習の課題は、(授業は塾で慣れているとはいえ)塾で10人の生徒に通じていることが、40人とういう学校のクラス集団に通じるかどうかということでした。教室の後ろで先生方が並び、教壇に初めて立って講義を始めた時は、緊張し、声がうわずっていたかも知れませんが、15分程度説明したあと、「はい、じゃ、問題○○と△△をやってみて!」とひとたび、教壇を降りて、歩きながら、(机間巡視というようです)生徒が解くのに、ヒントを言ったり、冗談いったり、冷やかされたりしながら、ぐるっと一通りみんなの顔を見たら、もうこっちのものです。「そうだ、一人一人が集まっているんだ。」まさに「小は大を兼ねる。(?)」

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   ここ10年来、私立中学校や高校の説明会に行くと、校長が、「おかげさまで今年は東大に一人入りました」とか「おかげさまで○○の模擬テストでトップをとった子が出ました」と自慢します。勉強という「手段」が学校の「すべて」だという風潮がはびこってしまった気がします。多くの私立校が、「進学予備校の○○風味」とか「進学予備校△△仕立て」に成ってしまったのです。この20年間で塾(進学塾)もサービス業として躍進し、社会で認知された代償に、大事な「距離感」を無くしてしまいました。小4で、成績順に週ごとに席順を変えるなんて、もはや笑うしかありません。学校も塾もどういう子が欲しくて、どういう人間に育てていきたいのか、その上で、勉強についてはこう考えるといった、教育のコアが欠けている気がしてなりません。新学習指導要領に対して、多くの私立校は、学習内容の削除だけで公立批判を繰り返すでしょう。でも、時代の境目の今、私は再び生意気に言いたいと思います。

                                            「何て、時代感覚がないんだろう。」

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 追記 前回のMJ通信では、新学習指導要領が実施されるまでの過程や、その理想と現実についてお話しいたしました。また引き続き一部、話題に取り上げました。これは「学習内容が3割削減されて、教科書が薄っぺらくなった。これでは区立と私立の差が開くばかりだ。」「だから、塾で勉強しなければダメだ。」という趣旨ではありません。先日、知り合いの小学生のご父母が、学校の担任の先生に、「こんなに学習内容が少なくなって大丈夫なんですか?」と詰め寄ったそうです。すると、先生は「学校に何を期待するのですか?」と問い返されたそうです。学校にいったい何を期待するのか、そして何を期待しないのか、そして子どもたちに何を期待するのかをご父母の皆さんと一緒に考えるきっかけにしたいという意味で、取り上げています。今後もそのつもりです。また、文中、各学校の話題については、塾生の話をもとに挙げていますので、必ずしも正確でないのかもしれません。ご了承ください。

(MJ通信  雑感  2002.6)

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