「この世界にアイは存在しません。」
小説はこの一行から始まる。
それは、内戦のシリアに生まれ、すでに赤ちゃんの時にアメリカ人と日本人の夫妻の養子となった主人公「アイ」が、高校1年の最初の数学の授業で聞く教師の一言である。私事だが、うん十年前の教育実習のテーマがこの虚数iの導入であった。若干この教師と自分がシンクロするが、私は「この世にi は存在しない」とは言わなかったと思う。「みんな i について語ろう」と言ったと思うが‥‥(笑)
中学までで習う数(実数)の世界では、どんな数も2乗すると0か正(プラス)の数になるが(例えば、(ー3)×(ー3)=+9 ) 、高校ではこれに《虚数》が加わる。
この仮想的な数により数学が抽象化され、広がっていく。2乗してー1になる数を《虚数》単位といい、《imaginary(想像上の) number(数)》の頭文字をとって、《 i 》(アイ)と表記する。1,2,3‥‥に始まり《natural number 自然数》、小学校以来進化してきた〈数の範囲〉はこの《虚数》を含めた《複素数》が終点である。
この《虚数》は数直線上に並ぶことはない仮想的・想像的な数であるから、「この世界にアイは存在しません。」となるのである。このシンボリックな言葉は呪文のようにこの小説全編を通じて節目に現れる。(25回以上出現する!)
数学的に補足すると、この2乗してマイナスになる虚数は、物理学や工学で周期的な現象を扱う場面で大きな役割を演じ、20世紀になり量子力学が生まれると、素粒子を波として扱う上で、その重要性はますます大きくなった。(最初は厄介者のアイは、実はすごく重宝になるんだが……。)
本当の両親も知らず、災禍の故郷から「選ばれて」しまい、仮想的に生かされ、何らの「根っこ」も感じられない不確かな存在のアイが、自分を必死に探す心の遍歴が描かれる。
また、アイは、ニュースで知る世界中で起きた災害やテロ、戦闘による死者の数をノートに記録する。それは自己の生を他者の死と相対化するエゴかも知れない、客観的な数字の記録は、アイがそれ以上傷つかないための防衛本能かも知れない、しかしその行為がアイが外界と繋がる一つの手段であるのだ。
アイは客観的な世界に惹かれ、大学で数学を専攻する。アイは親友ミナと遭い、誰かと恋愛をし、デモに参加する人の表情を撮影する写真家の伴侶ユウと結婚し、妊娠そして流産を経験する。
海の中で波にもまれてグルグル回る、最後のシーンだ。羊水の中の胎児のような原初的な感覚、時が止まる静謐の中、この世に生をうけた自分が祝福されているのを感じる。それは神からの祝福であろう。ミナやユウや両親から愛されているから「アイ」が存在するのではなく、もともと存在した「アイ」を彼らが愛したということに気づく。もうノートも必要ない。
「この世界にアイは、」‥‥‥間違いなく「存在する。」「私はここよ。」で終わる。いつも客観的な位置でしか捉えられない曖昧な自己の実存を認認し、命と愛の恵みを実感して、本は終わる。
この本から、受験や数学について気になったフレーズを取り出してみた。
〇受験は当然ながら受かる者もいるし、落ちる者もいる。その選定はとてもシンプルだ。成績の順、それだけ。その無慈悲さとクリアさに、アイは惹かれた。
〇数学に意味がないわけではない。でも数字は数字以外の何者でもなかったし、数式は数式としてしか世界に存在しなかった。それらに没頭していると、他の声は消えた。その難解で、でもシンプルな時間を、アイは愛した。
〇「私は受験する。学歴は邪魔にならないもの。」(中略)はっきりと数字で断ち切られる偏差値というもの、すべての生徒を匿名にする成績というものに、アイは依存していた。
〇それでも高校生のときに感じたあの密やかな安堵と絶対的な絶望は、まだヴィヴィッドにアイの心にあった。「この世界にアイは存在しません。」ほっとする、そして寂しい。
記事にコメントする