ここに地図がある。つなぎ合わさった80㎝×110㎝の大きな地図だ。上に 「グァム島(大宮島)附近兵要地誌資料図」と右から左へ旧字体で記されている
地名はすべて日本語、100を超えるポイントに特徴が仔細にぎっしり書かれている。右上に「極秘」、左下には「昭和十九年二月調製 参謀本部」とある。
以前グァム島に家族旅行で行った。サイパンやこのグァムは夏休みの短期間の家族旅行では定番なようで、「グァムに行って来た。海がきれいだし、バナナボートとか、すごーく楽しかった。」と耳にする機会も多かった。一応《海外》だから、子供たちはパスポートを取得する段から浮き浮きと舞い上がっていたのを覚えている。東京産のわれわれ夫婦には田舎もなく休みも少ないので、わが家では一大イベントだった。
予約したアクテビティの場所にバスで送迎してくれる。日本語だけで不自由なぞない。
ごく近くのショッピングセンターやブランドのアウトレットで買い物 もちろん多くの種類のマリンスポーツなど、非日常はそれはそれで十分堪能できるが、この単一な行動パターンが、人気のグァム旅行というシステムのようだ。グァム島旅行ではなく、タモン湾旅行、いや〇〇ホテルwith海遊びと買い物の旅だ。グァムの綺麗な一区画だけ引率されて夢を見させられてお金を使って帰途に着く、何かテレビで見る北朝鮮への旅行と大きく変わりない気もする。笑
もちろん戦争の痕跡の見物やジャングルクルーズなどディープなツアーもあるようだが‥。
そんな単一システムに違和感を感じ、私はこの胡散臭いグァム旅行に反抗したくなった。笑
早朝、まさにバケツをひっくり返した大雨の中、フィリピン系の移民の村の市場に行く。決して観光スポットではない。田んぼみたいに水浸しで泥だらけの空き地に、大雨に倒れそうな簡易テントが並ぶ。地元の生活用品や簡素な娯楽品が隙間だらけに置かれている。いくら記念に何かと思っても購買意欲が萎える品揃えだ。この島では、空港や基地の職員などの公務員やホテルのフロント係など給与が高い仕事は、先住民族 のチャモロ人が占めて、海を渡ってきたフィリピン系の移民たちや他の島々からの移民は現場のブルーカラーの比較的貧しい労働者たちである。もちろん一番上にアメリカ人がいる。歴然とした階層社会だ。
書店に行く。空港や観光モールの中のブックコーナーには、美しい海の本や観光マップしかない。地元の人が普通に行く書店はないものか、探すのが一苦労だったと記憶している。 もちろん私の英語力のせいも否めないが (笑) あまり書店に行くという習慣がないらしく、在り処を人に尋ねても知らない人が多かったようだ。島で一、二軒くらいしかないはずなのに‥。日本が、日本人がどう思われているのかが気になったのだ。もちろんたくさんのお金を落としてくれるお品の良い上得意に決まっているが、私が知りたいのはもっと根っこだ。
本棚の下の段に、「LIBERATION-1944」(解放)という写真集 のように大きくそして分厚い本を見つけた。
日本は1941年12月わずか6時間の奇襲作戦により米領グアムを占領し、35ヶ月間臣民教育を行う。すべて日本語の地名にしたのもこの時だ。サイパンやトラックなどの島同様、太平洋戦争末期オセロゲームで少なくなった残っているコマの一つだったが、1944年8月アメリカ軍海兵隊が攻め、この島と人々を《非道な日本軍の圧政から解放してあげた》のであった。この本は、解放40周年の記念アルバムとして刊行されたようだ。全部英語と図版の200ページ、全部読むとライフワークになってしまう。笑
いずれにせよ日本を悪者に仕立てアメリカが命をかけて救い出した勧善懲悪アメリカ映画風の構成であることは間違いない。
太平洋の島々を奪取することで、オセロゲームの勝利者となり、やがてアメリカ軍は、日本への空襲を効率よく行い、そしてとどめを刺したのである。《解放》は《侵略》の比喩に過ぎない。
冒頭の地図は、旅行の後、しばらくして国会図書館に保存されていたものを分割コピーして貼り合わせたものだ。きっと指揮官たちはテーブルにこの地図を広げ、アメ公の侵攻に怯え、奮い立ち、口角泡を飛ばし、いや厳かな神事のように作戦を立てたかも知れない。
300年にわたりグァムはスペイン領、その後1898年の米西戦争によって統治したアメリカはこの太平洋航路と経済的利権を手に入れた。征服者は都合よく人民を去勢し、感謝するように上手にマインドコントロールするものだ。日本は3年だけ割り込んだに過ぎない。
ここ10年で日本人の観光客は減り、JALに続き、デルタ航空も日本ーグアム路線を廃止した。北朝鮮の挑発も観光にとっては逆風だ。今度私がグアムに行ったら、チャモロ人のローカルフードをいっぱい食べて、美しいビーチで一日中 海と太陽と仲良くしたい、そしてグアムを愛したいと思っている。
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